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2006年02月26日

マスターズ第20回:最も有名なゲーム

 昨日はJPCA作業の合間になんとか翻訳をアップしたが、ウェブよりまだ紙会報にこだわったように、やはり翻訳や著作はいずれ紙で出したい。利益を出せ ることもだが、ウェブでは分かりにくい需要に関しても明白な答が出るように思う。


 スタントンが自分と指す気がないと分かると、モーフィーは、パリのカフェ・レジャンスへ向かった。そこでプロとして生計を立てていたハルヴィッツとのマッチが早速組まれたが、モーフィーは最初の2ゲームをいきな り落としてしまう。エッジによると、パリの夜を遊びすぎたせいらしい。
 しかし、モーフィーの予告通りハルヴィッツはそこまでだった。ホテルで休んだモーフィーは、翌日から1ドローをはさんで5連勝し、ハルヴィッツは延期を匂わせながらマッチを棄権した。モーフィーは、 賞金をパリへの旅費にあててくれとアンデルセンに送った。

 ちょうどその頃1858年10月、スタントンからマッチの可能性を 完全に否定する手紙が届いた。シェイクスピア研究で忙しく、長らく実 戦を離れているために公平な勝負にならないとの一点張りながら、いつかまた会えたら形式張らずに何局か指そうとも書いてあった。
 アンデルセンを待つ間、モーフィーはレジャンスで8人相手に目隠しチェ スを披露した。10時間もかかったが、モーフィーは水も飲まずに肘掛け椅子に座り続けて賞賛を浴びる。翌朝7時に、モーフィーはエッジを起こして全ゲーム の手順を暗唱した。友人に止められなければ、20人までは同時に目隠 しチェスができたという。

 モーフィーは一躍パリで名士となった。最高の食事をし、目隠しチェスの相手をしたレケンは彼の胸像彫刻を製作する。オペラをにもよく出かけた音楽好きのモーフィーは、そこでも記憶力を発揮し、一 度聴いたメロディーは忘れなかった。
 ロッシーニの「セビリアの理髪師」を鑑賞しながら指したゲームが彼 の最も有名なゲームとして残っている。貴賓席に招待したのは、ブラウンシュヴァイク州 公爵とイーズワール伯爵だった。半分は音楽に心を奪わ れる状況で、モーフィーはチェスの全歴史の中でもとびきりの名局を作り上げた!

モーフィー 対 公爵と伯爵

1. e4 e5 2. Nf3 d6 3. d4 Bg4 4. dxe5 Bxf3 5. Qxf3 dxe5 6. Bc4 Nf6 7. Qb3 Qe7 8. Nc3 c6 9. Bg5 b5 10. Nxb5 cxb5 11. Bxb5+ Nbd7 12. O-O-O Rd8

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3rkb1r/p2nqppp/5n2/1B2p1B1/4P3/1Q6/PPP2PPP/2KR3R w k - 0 13

13. Rxd7 Rxd7 14. Rd1 Qe6 15. Bxd7+ Nxd7 16. Qb8+ Nxb8 17. Rd8#
Exploits and Triumphs of Paul Morphy the Chess Champion
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2006年02月18日

マスターズ第19回:逃げるスタントン

 ラスカーの『チェスの常識』は快調に訳してきたが、4割を過ぎて中盤編へ入ると文字ばっかりになって滅入ってしまった(汗。元来読み応えのある文章を訳 したいとは思っているが、いずこも同じ戦争の比喩ばかりだ。まだ悲惨な第一次大戦前だからかもしれない。HPは、しばらく序盤資料作 成に専念する。


 ロンドンのホテルに着くやいなや、モーフィーはセントジョージ・ チェス・クラブへ向かい、ついにスタントンと面会した。モーフィーの 指しぶりを見たスタントンは、モーフィーが時間の都合は合わせると言うにもかかわらず、シェイクスピア研究で多忙等の理由で対局を拒否する。
 するとイギリスに渡っていたモーフィーの旧敵レーヴェンタールが現 れた。彼は1851年ロンドン大会は振るわず、ハルヴィッツとのマッチにも敗れたが、1857年のマンチェスター大会ではアンデルセンを抑えて優勝していた。そこで、モーフィー に100ポンドを賭けたマッチを挑んだ。

 モーフィーが9勝3敗2分で勝ち、楽勝ぶりに加えてその指し手の速さがイギリスで注目された。難しいコンビネーションを繰り出すときでも2分と 長考せず、一目で最善手を見つけるが、相手に気を遣い、読みを確認するために間をおいたという。
 スタントンはマッチから逃げ続けた。実戦から離れて半分引退状態で 準備時間も取れないと言えば、モーフィーも納得したかもしれない。しかし、スタントンのプライドがそうさせなかった。彼は、マッチをする可能性までは否定 しなかった。

 スタントンは手紙やチェス誌のコラムでマッチの約束をちらつかせ続 けた。モーフィーは、バーミンガム大会までスタントンを空しく追いか けて約束を果たすよう求めたが、事態は変わらなかった。モーフィーの世話役だったフレデリック・エッジは述べている。「スタントンの弱点は、モーフィーは私より強いと言う勇気がないことだ」。
 ロンドンにもどったモーフィーが指したゲームの中には、ヘンリー・バードとの名局がある。堪えきれず攻め急ぐバードに対して、ポジショナルに指すモー フィーが、敵陣の弱点めがけて目の覚めるコンビネーションを繰り出す。

バード 対 モーフィー

1. e4 e5 2. Nf3 d6 3. d4 f5 4. Nc3 fxe4 5. Nxe4 d5 6. Ng3 e4 7. Ne5 Nf6 8. Bg5 Bd6 9. Nh5 O-O 10. Qd2 Qe8 11. g4 Nxg4 12. Nxg4 Qxh5 13. Ne5 Nc6 14. Be2 Qh3 15. Nxc6 bxc6 16. Be3 Rb8 17. O-O-O

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1rb2rk1/p1p3pp/2pb4/3p4/3Pp3/4B2q/PPPQBP1P/2KR3R b - - 0 17

17... Rxf2 18. Bxf2 Qa3 19. c3 Qxa2 20. b4 Qa1+ 21. Kc2 Qa4+ 22. Kb2 Bxb4 23. cxb4 Rxb4+ 24. Qxb4 Qxb4+ 25. Kc2 e3 26. Bxe3 Bf5+ 27. Rd3 Qc4+ 28. Kd2 Qa2+ 29. Kd1 Qb1+ 0-1

 「妙手は、最初見たときは印刷のミスと思う」と誰かが言ったが、この黒の 18...Qa3こそ、英米式だと Q-R6なのでもう14手目に 14...Qh3と指してるのにおかしいなと思う実例である。

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2006年02月12日

マスターズ第18回:世界への道

 野球、ボウリング、チェスがないオリンピックに興味はなく、スポーツなのに芸術点が加味される種目というのもよく分からない。そういえば、氷上の「チェ ス」カーリングがあったが、未だにルールが分からない。注目度は高いがみんな分かって見ているのだろうか。


 モー フィーポールセンは好対照だった。てきぱきと指す モーフィーに比べてポールセンは遅指しで、じっと動かない。モーフィーの顔にはいら立ちが見え始める。モーフィーはクイーン・サクリファイスのと きでも12分で指すのに、ポールセンはそれを取るかどうかに75分も長考し、 他の手でもわざと30分くらいかけた。
 マッチの途中でモーフィーは友人に語った。「ポールセンは生きてる間には僕には勝てない」。結局、5勝1敗1分でモーフィーが楽に優勝する。優勝賞品は、銀製のピッチャー、ゴブレット、盆などの食器セット、300ドル相当の品物だった。

 大会の合間に、選手たちは非公式の早指し戦等に興じた。ポールセン は後の1859年に15局同時の世界記録を作ったほどの目隠しチェス の名人である。目隠しで相手にする5人にモーフィーも呼ばれ、彼も目隠しすることで同意する。モーフィーは28手目に5手メイトを宣言した。
 その後突然、モーフィーは20世紀のフィッシャーのように鳴りをひ そめる。ポールセンが生きてる間に彼に勝てないという言葉には、別の意味があったのかもしれない。しかし、全米のメディアは彼の勝利をたたえ、有名になったモーフィーには多くの詩が捧げられ た。

 ニューオーリンズにもどったモーフィーは、法律の実務可能年齢にな るの を待ちながらチェスを続ける。ニューヨークでは、後手と1ポーン落ちハンデでの対戦を募ったが、応じる者はいなかった。自分を基本的にアマチュア紳士と考えていたものの、多くの場合はプロとして賞金を賭けて戦うよ り他 なかったのである。
 勝ったマッチの賞金をこっそり対戦相手の妻に送り返したことさえある。ポールセンに刺激された目隠し同時対局も始めるが、真剣勝負をしない彼に代わっ て、友人たちがスタントンに挑戦状を叩き付けた。ニューオーリンズへ 彼を招いて勝者総取り賞金5000ドルのマッチを行おうというのだ。

 イギリス・チャンピオンからの回答は、他の仕事が多忙で最近指してないから行けないというものだった。それは事実だったが、『イラストレイテッド・ニュース』のコラムでは、「モーフィーにはアメリカでまだ 1,2人相手になる選手がいるはず」と尊大に返している。
 ヨーロッパの強豪のほとんども他にまともな職を持つアマチュアであり、アメリカへの往復という浪費はなかなかできるものではない。スタントンは、モー フィーが自らヨーロッパへ出て来てまず名声を得るべきと主張した。

 モーフィーは、イギリスへ渡ってスタントンの土俵で戦うしかなく なった。ニューオーリンズ・チェス・クラブは旅費を提供したが、モーフィーは辞退した。プロではないから、旅費は自腹で払うことにしたのである。
 モーフィーは、自分が世界最高のプレーヤーであることを実証する野心に燃えていた。1858 年5月31日にニューオーリンズを発ち、1か月後にイギリスに着く。ロンドンに到着した6月22日にちょうど21歳の誕生日を迎えた。
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2006年02月05日

マスターズ第17回:アメリカン・チェス大会

 以前も比較したグレン・グールドとボビー・フィッシャーの共通点をもう一つ見つけた。それは「サロン」嫌いである。グールドはショパンのような初期ロマ ン派の当時パリのサロンで弾かれたような曲が嫌いだったし、フィッシャーはラスカーの棋風をサロン風と批判した。対象は違えど、二人とももっと突き詰めた 表現を理想としたのは間違いない。


 1855年に、ポールはスプリング・ヒルを主席で卒業し、翌年法律の学 位を取るためにルイジアナ大学へ入学する。そこでもチェスと同様彼の 記憶力は大いに役立った。同年、おじアーネストは、『イラストレイテッド新聞』に「法外なチェス・チャレンジ」と題した広告を出す。
 「ニューオーリンズに来る誰とでもポールが300ドルを賭けて対戦 する」というものだったが、誰も乗らなかった。そこで1857年ニューヨークで予定されたアメリカン・チェス大会への参加を決意する。しか し悲劇が起こった。ポールのが突然亡くなったのである。
 ポールにはニューヨークで指すことなどもう考えられなくなってしまったが、ニューオーリンズの誇りにかけてと説得する友人たちに後押しされて翌年ニューヨークへ旅立った。

 アメリカン・チェス大会は、1851年のロンドン大会に刺激を受 け、ニューヨーク・チェス・クラブが主なスポンサーとなって企画したアメリカ人に参加を限った同規模の大会であり、長らくヨーロッパに独占されていたチェ スを国内でも普及させ、レベルアップを図ろうという狙いがあった。
 役員が広いアメリカを選手集めに奔走する一方で開催地はブロードウェイに 決まった。メインホールには、アメリカ国旗や各州の旗が掲げられ、過去の各国の名人たちの名前も列挙されていた。大理石のテーブルが2列に並び、スタントン型の駒が置かれた。

 モーフィーは16人の参加者の中で抜きん出ていた。静かに我慢強く相手の指し手を待つマナーでも注目される。最強の相手はアイオワ州から参加のルイ・ポールセンで、1833年にドイツで生まれてから21歳のときに仕事 のためにアメリカへ移住していた。
 ポールセンは、地元ではもちろんのこと、モーフィーと違ってヨーロッパでの名声もすでに得ていた。ロンドン大会と同じ勝ち抜き戦なので、ポールセンは幸運にも決勝でモーフィーと当たり、ドローに終わる。そこで優勝者を決めるために二人のマッチが組まれた。
Morphy's Games of Chess
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2006年01月29日

マスターズ第16回:モーフィーの勉強法

 amazonは自分が使うのもアソシエイトから買っていただくのもありがたいのだが、注文中の本が4冊とも入手遅れになってしまった。3〜5週間で発送 の3冊は分かるが、もう1冊は24時間で発送の本である。これだけ頼んでたら先に届いていた気もするのだが(汗。
 アソシエイトの傾向からしても序盤本の需要が大きいし、『いけないチェスの指し方』訳が終わったら、翻訳はお休みして序盤ページの執筆にかかろうかとも 思う。ブログとの兼ね合いが難しくなってきた。この「マスターズ」もブログでは1回分を少なめにしないとしんどい。まとめる作業はいちばんたいへんなの だ。


 モーフィーの家族は、神童をひけらかすことに余念がなかった。ポールは ニューオーリンズ中のプレーヤーと指し、目隠し対局の才能も開花し始 める。12歳の誕生日におじアーネストと指した目隠し局は初期の名局 で、すでにコンビ ネーションと相手のわずかなミスにつけ込む才を示している。

ポール・モーフィー−アーネスト・モーフィー

1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bc4 Bc5 4. c3 Nf6 5. d4 exd4 6. O-O d6 7. cxd4 Bb6 8. h3 h6 9. Nc3 O-O 10. Be3 Re8 11. d5 Bxe3 12. dxc6 Bb6 13. e5 dxe5 14. Qb3 Re7

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r1bq2k1/ppp1rpp1/1bP2n1p/4p3/2B5/1QN2N1P/PP3PP1/R4RK1 w - - 0 15

15. Bxf7+ Rxf7 16. Nxe5 Qe8 17. cxb7 Bxb7 18. Rae1 Ba6 19. Ng6 Qd8 20. Re7

 次の飛躍は1850年に訪れた。ヨハン・レーヴェンタールがブダペ ストからはるばるニューオーリンズにやってきたのである。当時最強のプレーヤーの一人だった彼は同時対局やマッチをしてアメリカを回っていた。そこで12歳のポールとのマッチが組まれた。
 最初はドローで続く2局をポールが勝利する。レーヴェンタールは後 の著書でこう語っている。「当時のモーフィーは、心身共に病み、 ニューオーリンズの気候に疲れ果てていた」。ポールの一手一手に眉をつり上げた彼だが、もちろんポールが将来大成功すると予言した。

 ポールはこの強さになるまでチェスを勉強しなかったという多くの証 言がある。学生の頃チェスのを読んでいるところを見られたこともな いし、大学の親友も、最初の数年はチェスのもしなかったと振り返っ ている。成績はクラスのトップだった。しかし、これでは説明にならな い。
 本は一度読めばもう必要ないので手放したことが知られている。その一つはスタント ンの1851年ロンドン大会に関する本で、15歳の ポールは、その表紙に「ひどいゲーム」と殴り書きしている。すでに誰 も敵ではないと悟っていたようである。
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2006年01月21日

マスターズ第15回:悲劇の天才−モーフィー

 昨日テレビ東京の「所さんのそこんトコロ」で、「時刻表で読書感想文を書いていいの?」という視聴者からの質問がおもしろかった。コンクール応募では雑 誌という点でだめだが、それ以外は別に漫画でもかまわないという回答だった。実際に子供に書かせるとタウンページや地図帳でもおもしろい感想文になった。
 私は普通の作文に比べて感想文がきらいだった。元々フィクションがきらいで小学生の頃から科学の本ばかり読んで感想文も書いていた。あの頃は原稿用紙1 枚 書くのにひいこらだったのに、今はブログとホームページで毎日10枚分は書いているのだなあ(笑。


 1 年半の短いキャリアでありながら、同時代の最高であるばかりか、全時代を通じても最も偉大なプレーヤーかもしれない。早くにチェスを退 き、チェスを憎み、狂気の末に亡くなった悲劇の天才、ポール・モーフィーは 1837年6月22日にニューオーリンズで生まれ、1884年6月 10日に当地で亡くなった。
 謎に包まれた伝説のプレーヤーは名局の山を築いたが、相手との差がありすぎたために真の強さが未だに分からない。ボビー・フィッシャー:「モーフィーはおそらく今までで最も正確なプレーヤーだ。今日の 誰もかなわない」。ルーベン・ファインは、小柄なボクシングのヘビー級世界チャンピオン、ジョー・ルイスにたとえている。

 モーフィーは、ロマンティックなコンビネーションに現代的なポジショナル・プレーを加味した。フィリドールのようにゲームを論理的に構築 し、堅実な陣形からコンビネーションを繰り出した。「ピースを助ければピースが助けてくれる」。彼の相手が仕掛ける攻撃はむなしく空回りした。
 モーフィーは、堅実に組み上げた陣形には無理攻めが効かないことを分かっていた。先に相手の陣形を崩させてから、アンデルセンに匹敵するコンビネー ションで反撃する。最終的には派手で豪快な攻撃を見せるが、基本的には古典的で 純粋な棋風である。
 マックス・エイヴェは『棋風の発展(Development of Chess Style)』で述べている。「モーフィーは、攻撃と同じくらい防御にも優れていた。他のプレーヤーは攻撃に比べて防御が下手で、関心も低い。モーフィー は同時代の誰よりも局面を全体的に把握していた」

 モーフィーはアイルランド、フランス、スペインの血を引いている(元来の綴りはMorphyではなくMurphy)。はクレオール系フランス人、は判事で、4人兄弟の3番目だった。チェス好きの父とおじアーネストの影響で8歳のときにルールを覚える。おとなしくて無口な子供だった。
 おじはポールの非凡な腕前をニューオーリンズ中に吹聴する。1846年に、将校ウィンフィールド・スコットが街へ訪れた。アマチュアの強豪と目された彼とポールとの対局が実現す る。そのゲームは、後に『イブニング・ポスト』紙を初め多くのアメリカの新聞が 記事にした。

 「スコットのチェスへの情熱も見栄に過ぎなかったのかもしれない。ポールの父らとの旧交を温めた後で、対局を希望すると、父は息子を推薦した。大男のス コットに似つかわしくない相手は、10歳ほどの少年だった。洒落にな らないと思いながらも威厳を保つスコットだったが…」
 最初のゲームをポールが10手でメイトにすると、将校は不機嫌に なった。次もポールが勝つと、驚きと憤りのあまり震えながら帰って行った。ポールはいつも通り無口なままだったという。

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2006年01月15日

マスターズ第14回:黒い死神−ブラックバーン

 毎週見る教養系テレビ番組でいちばん楽しみにしているのがテレ東の「美の巨人たち」だ。昨日はイギリスの風刺画家ウィリア ム・ホガースで、いつもながらの独特の切り口が特におもしろかった。ホガースの連作版画「放送息子一代記」を大岡越前が徳川吉宗に説明しながら1枚ずつ順 に見せていくのである。
 もちろん鎖国中だし(最近異論があるようだが)そんな可能性はないはずだが、18世紀のイギリスに意外な闇を見た吉宗が「今からこの悪党を成敗に行く」 と言いだして越前が止めたり、「お上の悪行をこれほどリアルに描く絵師がいるとは」と恐れおののく演出で楽しませてくれた。


 スタントンに続くイギリスの世代には、歴史書を著したヘンリー・トーマ ス・バックル、レヴェレンド・ジョージ・マクドネル、アメリカへ移住したジョージ・マッケンジー、そして超ロマン派の会計士で『大英帝国鉄道分析』を著したヘン リー・バード(1830-1908)がいる。
 今も使われるバード・オープニング(1 f4)の考案者である(シャトランジの頃から指されてはいるが)。ドイツのマスター、リヒャルト・タイヒマンはこう語っている。「彼の健康と同じで絶好調と絶不調の繰り返し。イ ギリスにはもうバードのようなプレーヤーは出てこないだろう」
 1886年から1912年にかけて活躍したエイモス・バーンは、 1898年にケルンで世界最強のシュタイニッツ、チゴリン、シュレヒターらを抑えて優勝した。

 しかし、その中でもスタントン後のイギリスを代表するのは、ジョーゼフ・ヘンリー・ブ ラックバーン(1841-1924)である。国際大会で恐れられた彼は「黒い死神」と呼ばれるようになった。黒いあごひげと威嚇的な風貌、闘争心、そし てもちろん名前に「ブラック」が入っているからでもある。
 同時代のプレーヤーとは違い、賞金目当てに可能なかぎり大会に参加する完全な職業プ レーヤーだった。1914年のサンクト・ペテルブルグ大会まで52年 もの長きにわたり、国際大会で活躍し続けた。長身でパワフル、社交的でグルメで冒険好きといった性格も彼の伝説に一役買っている。

 1881年冬のベルリン大会では、パウルセン、ウィナウアー、ツ カートルト、チゴリンを抑えて優勝する。目隠し対局も得意で、同時に16局まで指すことができた。何もない(ように見える)ところから致命的なコンビネーションを生み出す狡猾な悪魔だった。
 正装で同時対局をした階級意識の強いスタントンと違い、古着を着たブラックバーンは相手と冗 談を言い合うほどきさくで穏やかな人柄だった。「巨人」 「鉄の神経」とも呼ばれ、1899年までで、少なく見積もってもすで に5万局を指していたという。

 世紀の変わり目のインタビューでこう語っている。「ウィスキーは頭 の活動にいいことが分かった。特に厳しく長い激戦にはな。他のプレーヤーはワインや蒸留酒を飲んどるようだが、わしは指すときに1,2杯やっとるよ」。こ れがイギリスの飲み屋で永久にただにしてもらえるためというが立っ て問題になった。
 禁酒同盟は憤慨し、ブラックバーンの仲間からも恥知らずの声が上が る。そして、アメリカのハートフォードの『タイムズ』紙が、「ラス カー、ピルズバ リー、タラッシュらが重大な対局を前にしてウィスキーをすすっているのは、見たことがない」と書くことで事なきを得るのだった。

 ブラックバーンのエキサイティングなゲームの中でもとびきりの一つは、1889年ニュー ヨークでのエイモス・バーン戦である。

バーン−ブラックバーン

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 Nf6 4.O-O d6 5.d4 exd4 6.Nxd4 Bd7 7.Nc3 Be7 8.Be3 O-O 9.Be2 Re8 10.Bf3 Bf8 11.Bg5 h6 12.Bc1 g5 13.g3 Nxd4 14.Qxd4 Bg7 15.Qd1 Bc6 16.Re1 Qd7 17.Bg2 Re7 18.Qd3 Rae8 19.Bd2 Ng4 20.f3 Ne5 21.Qf1 d5 22.Rad1 dxe4 23.Bxg5









4r1k1/pppqrpb1/2b4p/4n1B1/4p3/2N2PP1/PPP3BP/3RRQK1 b - - 0 23

23... exf3 24.Bh1 Nd3 25.Rxe7 Bd4+ 26.Be3 Rxe7 27.Qxd3 Rxe3 28.Qxd4 Re1+ 29.Kf2 Qxd4+ 30.Rxd4 Rxh1 31.h4 Rc1 32.Ne4 Rxc2+ 33.Kxf3 f5 0-1

 いつの時代もチェスの花形クイーン・サクリファイスは、グランドマ スター級となるとなおさらである。クイーンを取ると白にとって致命的となる。黒の23手目 でナイトも浮くが、これをルックで取っても白は壊滅する。シュタイニッツは「巧妙で輝かしい名人ならではの一撃」と評した。ブラックバーンが「黒い死神」 と呼ばれたのは当然と言えるだろう。
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2006年01月04日

マスターズ第13回:不朽−アンデルセン

 夕べETVで「ハートで感じる英文法」を見た。本放送でおもしろそうと思いながらなかなか見られなかったのだが、なんと講師はメルマガを取っている大西 泰斗だった。前置詞、仮定法、助動詞等の使い分けを丸暗記じゃなくイメージで身に付けようという試みはすばらしい。
 私は仮定法とかは理屈を覚える前、というか頭の中で整理するのをさぼってるうちに自然と身に付いたから結果的にはこの方法と同じだろう。ところで、大西 先 生、日本語の訛り(発音が英語風になってしまった?)がデーブ・スペクターのようで変(笑。
 今朝NHK「生活ほっとモーニング」に出ていた松田聖子見逃した(泣。


 1851年ロンドン大会優勝でプロプレーヤーを意識したアンデルセンだ が、盤上以外では慎重で保守的な彼は、ブレスラウへもどっての面倒を見ることにする。続く数年間は国際大会に出ず、非公式なゲームを指した。
 1853年にベルリンでJ・デュフレンと指したゲームが当時の中で は「不朽」と呼ばれる名局として残っている。デュフレンは駒の位置的 (ポジショナル)感覚があまりなかった が、アンデルセンの天才的なプランの価値を損ねるものではない。

アンデルセン−デュフレン

1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bc4 Bc5 4. b4 Bxb4 5. c3 Ba5 6. d4 exd4 7. O-O d3 8. Qb3 Qf6 9. e5 Qg6 10. Re1 Nge7 11. Ba3 b5 12. Qxb5 Rb8 13. Qa4 Bb6 14. Nbd2 Bb7 15. Ne4 Qf5 16. Bxd3 Qh5









1r2k2r/pbppnppp/1bn5/4P2q/Q3N3/B1PB1N2/P4PPP/R3R1K1 w k - 0 17

17. Nf6+ gxf6 18. exf6 Rg8 19. Rad1 Qxf3 20. Rxe7+ Nxe7 21. Qxd7+ Kxd7 22. Bf5+ Ke8 23. Bd7+ Kf8 24. Bxe7+ 1-0

 アンデルセンは、1857年のマンチェスター大会では不調で、翌年 のモーフィーとの有名なマッチにも敗れる。1861年のコリッシュとのマッチに勝利して復活し、1862年ロンドン大会でも優勝し、同年のルイ・ポールセンとのマッチに引き分ける。
 アンデルセンが世界チャンピオンと呼ばれることに疑問の余地はな かった。しかし、その座をかけた1866年のマッチでシュタイニッツと 対決する。シュタイニッツが勝って新チャンピオンを名乗ると、誰も反論するものはなかった。

 シュタイニッツの勝利は意外だった。引退したモーフィーがまたアンデルセンと対決すると期待されていたからでもある。ロマンティックな時代は終わりを告げる。新感覚のプレーヤーが登場し、旧世代の 成立しない攻撃やサクリファイスをはね返した。
 新世代は無理攻めをせず、堅牢なセンターを築き、終盤へ向かう長いプランを立て、巧妙に駒を配置する技術(ポジショナル・プレー)を発展させた。アンデルセンは、1871年にツカートルトに、1876,77年にポールセンに破れる。旧世代の彼にもう復活 の機会はなかった。

 時代が変わっても、その反動であるかのように、フランク・マーシャルや ミハイル・タリのようなロマン派を彷彿とさせる大天才が後に現れる。 ここではアンデルセンのライバル、コリッシュに触れておけばいいだろう。
 ハンガリー生まれのイグナーツ・コリッシュ(1837-1889)は、ロシアのチェス愛好家ウルソフ皇太子の秘書のとき、チェスにはまる。イギリスへ渡るとそこでプロとし て生計を立てる。それほどに彼は強く、24歳でポールセンと引き分け、ハルヴィッツとホルヴィッツを破った。

 アンデルセンとのマッチでも、最初は引き分け、2回目は半ポイント差で惜敗したほどである。パリに移住してから、モーフィーとのマッチがささやかれたが 実現しなかった。モーフィーはではやらず、コリッシュは賭でしかや らなかったからである。
 1867年のパリ大会では、腕がなまっていたにもかかわらず、ウィナウアーや新チャンピオン、シュタイニッツを押さえて圧勝する。ツカートル トは絶賛した。「コリッシュは喉元にかみつくトラで、それに比べたら シュタイニッツはポーンをかすめ取るこそ泥だ」

 その後コリッシュは表舞台から去る。銀行業に手を染めてついには業 界の大立て者になり、金銭的にチェスを支援した。1870年バーデンバーデンと1882年ウィーン大会は、彼の資金援助がなければ開催できなかったのであ る。
 コリッシュが1860年代の全盛期にシュタイニッツとマッチで対戦 しなかったのは悔やまれる。コリッシュは飛ぶ鳥を落とす勢いだったし、シュタイニッツもポジショナル・プレーを磨いて待ち受けていたのだった。


 『完全チェス読本1』にも、コリッシュは最強のアマチュアとして触れられているが(たぶんネタ本同じ(汗)、賭プロの時期はあったわけだから、それを言 うなら生涯アマの世界チャンプ、エイベ(ボトビニクも?)が最強だったのではないだろうか?!
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2005年12月29日

マスターズ第12回:不滅−アンデルセン

 年賀状が元日より早く誤配されたミスをニュースでやっていたが、私は郵便戦をやっていた頃、普通便として出しているのに年賀状扱いされて遅配されること がよくあった。「年賀じゃない」とでも朱記しなければならないのだろうか(笑。ちなみに、もう年賀状を出さなくなって数年になる。


 19世紀ヨーロッパ最強プレーヤーは、ブレスラウ(現ポーランド南西の ブロツワフ)出身のアドルフ・アンデルセン(1818-1879)で ある。地元のフリードリヒ高校で生涯数学を教えたが、チェスにはまっ たのは9才のときだった。
 にルールを教わり、自身もグレコ、フィリドール、アルゲイアー等 の手引書に夢中になる。休日にはできるかぎりベルリンまで出向いてク ラブで腕試しをした。そこで七星派のプレーヤーたちと顔を合わせたこ とは間違いないだろう。

 トーナメントプレーヤーとしては遅い30歳デビューだったが、それ までは数学の研究と教授職を得るために忙しかったのである。しかし、国際舞台では最初から花開き、チェスのロマンティック時代をピークにまで押し上げた。
 コンビネーションに秀でた攻撃的な棋風で、ポール・モーフィーとの数局を除けば、敵陣に作った弱点を比類なきサクリファイスで徹底的に破壊した。「不朽」と「不 滅」と名づけられた二局は、チェス史に残る名局の中でも傑作中の傑作として知られている。

 圧倒的な攻撃を受けて完敗した対戦相手でさえ大喜びする。魔法のようなコンビネーションで仕留められた驚きと感動に打ちひしがれる。「不滅」局の引き立 て役キェゼリツキーは、興奮と熱狂にせきたてられて棋譜をすぐ地元パ リのクラブへ送ったほどである。
 アンデルセンは、性格のいい長身の紳士で、猫背だがスポーツマンで もあった。チェスプレーヤーとしては「敵」を作らなかったようである。「誠実に話し、笑顔は優しく、喜びを豊かに表現する。彼ほど明るく優しい目をした人 物を知らない」とレヴァランド・ジョージ・マクドネルは評している。

 アンデルセンの経歴は1848年ハルヴィッツとの引き分けたマッチで始まった。直前にウォーミングアップで行っ た目隠しゲームではハルヴィッツを負かし ている。3年後のロンドン大会でスタントンを凌いで優勝するのだが、 そのロンドンで「不滅」局は生まれた。
 大会後にディヴァン・クラブで行われた非公式戦で、彼はキェゼリツ キーと指した。

アンデルセン−キェゼリツキー

1. e4 e5 2. f4 exf4 3. Bc4 Qh4+ 4. Kf1 b5 5. Bxb5 Nf6 6. Nf3 Qh6 7. d3 Nh5 8. Nh4 Qg5 9. Nf5 c6 10. g4 Nf6 11. Rg1 cxb5 12. h4 Qg6 13. h5 Qg5 14. Qf3 Ng8 15. Bxf4 Qf6 16. Nc3 Bc5 17. Nd5 Qxb2









rnb1k1nr/p2p1ppp/8/1pbN1N1P/4PBP1/3P1Q2/PqP5/R4KR1 w kq - 0 18

 18. Bd6 Bxg1 19. e5 Qxa1+ 20. Ke2 Na6 21. Nxg7+ Kd8 22. Qf6+ Nxf6 23. Be7#

 黒のポジション感覚のお粗末さが目立つが、だから生まれた名局と言 えよう。ところで、スタントンとアンデルセンの棋風性格がまるで正反対なのは興味深い。二人ともそれらを足して二で割ることでバラ ンスを取っていたのかもしれない。「人は棋風によらない」のである。
The Chess Games of Adolph Anderssen: Master of Attack
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2005年12月22日

マスターズ第11回:七星派

 amazonの新機能「なか見!検索」はつまみ読みに重宝しているが、検索機能自体は全ページに対応しているのがうれしい。今後思わぬところから思わぬ ネタを発見できるかもしれない。こうなると、本屋で実際にパラパラめくれるメリットなどかすんでくる。
 例えばこの機能を使うと、以下の本がハルヴィッツとスタントンの同時対局に触れていることが分かった。買えないけど(汗。
Harrwitzによる検索結果:
51ページの引用: " ... player named Harrwitz, each of the three playing the other two in simultaneous games, Staunton giving rook odds to both of the others, who played blindfolded; Harrwitz won his ... "
  「harrwitz」の本書中の引用ページについてはこちらをご覧ください。
Crescendo of the Virtuoso: Spectacle, Skill, and Self-Promotion in Paris During the Age of Revolution (Studies on the History of Society and Culture)
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 ヨーロッパの東方からもプレーヤーがやってくると、1世紀にも渡って他国から来たプレーヤー も定住して活躍したフランスは、聖 アマンを最後に世界チェス界の中心ではなくなっていく。イタリアは 18世紀以降これといったプレーヤーを世に出していない。
 イギリスのチェス熱は続いたが、世界チャンピオン級プレーヤーとな るとスタントンが最後となった。後に出てくるジョーゼフ・ヘンリー・ブラックバーンは、たしかに恐るべき強豪になるのだが。

 ドイツでは、19世紀初期のチェスの中心はベルリンであり、その主要プレーヤーは七星派(プレイヤード)と呼ばれていた。チェスクラブは1803年に誕生し、1830年代には七星派の活躍によって、ブルームガルテンにあるクラブがヨー ロッパでも著名なクラブとなった。
 七星派はアマチュア・チェス愛好家有志の集まりで、ほとんどは他の分野でも有名な学識者である。彼らはヨハン・アルゲイアー(1763-1823)の後を埋めるかのように現れた。アルゲイ アーは、ドイツで最初の手引書『新 理論−実践指南(Neue Theoretisch-Praktische Anweisung)』を著したオー ストリアのプレーヤーである。

 七星派のリーダーはルートヴィヒ・ブレードー(1795-1846)、 ベルリン高校の数学教授で、1846年にドイツ初のチェス雑誌『ドイツ・チェス誌(Deutsche Schachzeitung)』を創刊した。他には、二人の画家、カ ルル・ショルンとベルンハルト・ホルヴィッツがいた。
 ホルヴィッツはイギリスへ渡って最強プレーヤーの仲間入りをし、1851年ロンド ン大会の16人の参加者に入って名を残した。『ブリティッシュ・チェ ス・マガジン』は、「ショルンは、画家としてはホルヴィッツより上だが、チェスプレーヤーとしては下である」と評している。

 他には、弁護士のカール・メイエ、軍人のパウル・ルドルフ・フォ ン・ビルグエルがいた。ビルグエルは、長年かけて不朽の『手引書(Handbuch)』に取り組んだが、未完のまま1840年に亡くなる。ドイツ語圏ではスタントンの英語本に匹敵する本書は、 フォン・デル・ラーザが完成させた後版を重ねた。
 ラーザ男爵(1818-1899)は、七星派の中でも最も興味深い人物である。彼は、十分な才能を持ちながらも競技チェスには入れ込まなかった。ウィー ン、リオデジャネイロ、デンマーク等の大使を務めるほど聡明で、チェ スの歴史理論に明るく、所有するチェス文献は他に比肩するものがなかった。
 大使として旅行するのを利用して各国のチェス書を蔵書に加えていっ た。数少ないトーナメント経験を紐解くと、1853年にスタントンを 接戦で破っている。

 七星派によって、分析や理論的考察、概論がすべてのチェスプレーヤーの底上げをする道筋が作られた。ウィーンから後にロンドンへ移住したエルンスト・ファルクビアは、七星派の先駆的な研究の恩恵にあずかったし、ロンドンやパリで 名声を得てからモーフィーに破れたダニエル・ハルヴィッツもしかりである。
 後の世代、ポーランドのサイモン・ウィナウアー、ボヘミアのウィル ヘルム・シュタイニッツ、ラトヴィアのヨハネス・ツカートルト、ハンガリーのイグナーツ・コリッシュも、七星派の教えに心酔した。もう一人のハンガリー人ヨハン・レーヴェンタールも、1848年に故国を離れるまで七星派の影響を受けてからア メリカ へ渡った。
Chess Studies and End-Games
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2005年12月16日

マスターズ第10回:チェスクロック

 昨日自分の受験の話を書いたからか、受験参考書の注文までamazonアソシエイトからいただいてうれしい。スマリヤンについて書き忘れたが、論理 ジョークに接すると、日本 と海外のギャグの違いも見えてくる。日本の中だけでも概して理屈っぽさを嫌う関西では、関東ほど受け入れられない傾向があるだろう。
 先日、NHK月曜23:15の「英語でしゃべらナイト」では、日本のお笑い芸人が外国人相手に英語でネタを披露していて興味深かった。数年前にウェブ上 の投票で決まった「世界一おもしろいジョーク」の話題もあり、和訳するとおもしろさが半減することを改めて感じた。
 論理的に伏線を張りながらナンセンスな落ちで肩すかしのパターンが王道に思える。ではドタバタ(スラップスティック)は海外では受けないかという と、そんなことはない。「風雲!たけし城」はヨーロッパで大人気だし、「志村けんのばか殿様」は海外進出らしい。


 アンデルセンの偉大な経歴が始まることになった1851年ロンドン大会 だが、多くの課題が露呈した。その運営、プレーヤーの処遇、ルールの問題などを解 決しなければ、今後の健全な大会運営は実現しない。例えば、ドローの場合をどうするか? 慣習通り再戦としたため、進行が遅延した。
 この問題は、1867年のダンディー大会で、(今日まで続く)両者に半ポイントずつを与える規則を採用してやっと解決する。それ以上に切迫した問 題は、何らかの形で持ち時間制限が必要なことだった。さもないと、遅いプレーヤーは際限なく時間を引き延ばす。
 実際、気短なスタントンは、ウィリアムズという田舎者と指したときにかんしゃくを起こしてゲームを投げ、大会本で不満をぶちまけている。「ウィリアムズ はどの手も計画的にゆっくり指すので、見物人も不満を露わにした。一手に2時間かけたゲームが20時間も続くなど、もはや正気の沙汰ではない」

 その後チェスクラブでどうすればいいか議論が続く。1852年のハルヴィッツ対レーヴェンタールのマッチでは、一手ごとに20分の制限が課せられた。 しかし、明らかにそれ以上の長考が必要な局面があるため不評に終わる。
 『チェスプレーヤー誌』にこういう手紙が寄せられた。「各プレーヤーの手元に3時間の砂時計を置き、友人が、プレーヤーの手番のときは砂時計を立て、相 手の手番のときは水平に寝かせておく」というものだ。6時間で必ず終わる。サドンデスの時間設定は意外と早くに考え出されたのである。

 同じ1852年にはラサ男爵のアイデアも同誌で発表された。ラサは、スタントン対聖アマン戦の消費時間を考慮し、一手に20分を超過したら1ギニーの罰 金(!)を提案した。そして、ついに自分の時計を止めると相手の時計が動き出す装置を使わなければ解決できないという結論に達した。
 しかし、実現には時間を要した。1861年のアンデルセンとコリッシュのマッチにはまず砂時計が使われる。2時間で24手の時間設定である。マン チェスター・チェスクラブのトーマス・ブライト・ウィルソンが考案した初の機械式チェスクロックは、1883年のロンドン大会でようやく使われた。

 これは今日のアナログ式チェスクロックの原形であり、2つの文字盤にそれぞれ針とフラッグ(旗)が付いている。考えている間は自分の時計が進み、手を指 してボタンを押すと自分の時計が止まって相手の時計が動き出す。フラッグが落ちたときに既定の手数を指していないと、時間切れで負けになる。
 時間切迫という亡霊にすべてのプレーヤーが取り憑かれ始めた。遅指しのプレーヤーは残り数分で20手以上も残し、局面で勝っていても時間で負けるゲーム が続出した。視界の片隅で時計を一瞥して絶望するプレーヤーを見るのは痛ましいが、すべてはチェスの未来のためだった。スタントンの時代までのプレーヤー には縁が なかった苦悩である。
Staunton's City: Chess in London, Simpson's and the Savoy
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posted by 水野優 at 15:03| Comment(0) | マスターズ(チェス近代史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月10日

マスターズ第9回:1851年ロンドン大会

 昨日TBS「金曜日のスマたちへ」でゲストの作家室井佑月の過去をVTRで再現していた。ネームバリューで作家になったイメージが強かったが、壮絶な紆 余曲折があったのには驚かされた。小手先のテクより人生経験に裏打ちされた真実味で受けているのだろうか。
 私はハングリーであっても、それに平気で安住するからハングリー精神につながらない。自分がやりたいこともやるべきことも分かっているから後は自力を伸 ばして延長線を引くしかない。やりたいことすら分からない人たちよりははるかに先行しているはずなのだが…。


 1851年の国際トーナメントは、同年ロンドンで行われた世界初の万博 にスタントンが触発されたものであった。すべての強豪が招待されたといっても、距 離や経費が障害となったプレーヤーもいる。ロシアのカルル・イェニッシュ(イギリスに着いたのはトーナメントの終わり頃で対戦せず)とアレクサンダー・ペ トロフ。聖アマンはカリフォルニアにいたから不参加だった。
 参加者は自腹でロンドンまで行って5ポンドの参加費を払う。これにスポンサーの支援が加わった優勝賞金は183ポンドだった。大会前に、ハンガリーの ヨーセフ・セーンとドイツのアドルフ・アンデルセンのどちらかが優勝したら賞金の3分の1を負けた方に譲るという密約が発覚し、スタントンを憤慨させた。

 他の参加選手は、ニューヨークからのヨハン・レーヴェンタールとパリからのリョネ・キェゼリツキー、イギリス代表はスタントンと、数年前からロンドンに 住んでいたホルヴィッツ、さらに16人の参加枠を埋めるためにイギリスの強豪が呼ばれた。ハルヴィッツは不可解な理由で参加を拒否した。
 この大会と1895年ヘイスティングズ、1914年セント・ペテルスブルク、1924年ニューヨーク大会は、総当たりではなく勝ち抜き戦だった。スタン トンは3回戦で運悪くアンデルセンと当たって破れる。スタントンは健康と大会運営の疲れが原因だとした。

 『チェスプレーヤー誌』には、当時スタントンが入院したりでチェスどころではなかったと記されている。自分の雑誌があるプレーヤーというのは都合がい い。後の公式大会本に、彼は自由に自戦記を書いた。最初のアンデルセン戦についての記述が典型的である。
 「私の今までのどのマッチのゲームと比べても、これが私のゲームとはクラブの3分の2のプレーヤーにとって信じがたく、名人と言われる二人がしのぎを 削ったものとはほど遠いと思うだろう」。スタントンは独りよがりの分析を続け、局面では勝っていたが「疲労のために」ゲームを投げたと述べている。


 メイソン訳は、やっと「終盤」の最後のクイーンに入った。問題の解説ばかりで飽きてきたので、このまま次の「コンビネーション」も続けるかどうか迷うと ころだ。おもしろい表現としては、Royal Pawnが出てきた。王族筋、つまりd,eファイルのポーンのことである。センターポーンとは、言い方によってずいぶん印象が変わるものだ。
The Chess Tournament - London 1851
1843820897 Howard Staunton

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posted by 水野優 at 13:10| Comment(4) | マスターズ(チェス近代史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月03日

マスターズ第8回:聖アマン−スタントン

 例の耳掛け式ワイヤレスヘッドホンは、耳掛けを改造してはさむ痛さは何とか軽減したが、やはり外の騒音に対してはほとんど無力である。下階(界)人のが さつな物音をシャットアウトするためにもソニーの密閉式を買って、それと併用する専用の改造眼鏡を用意するしかなかったか。


 横暴な素行とは違って、スタントンの棋風は奇妙なことに特に攻撃的というわけではなかった。他のトップ プレーヤーと同じく、相手の戦術戦略ミスにつ け込む(戦略はゲームの全体的プランで、戦術はそれを実現する個々の方法)が、ロマ ンティック時代の殴り合いとは一線を画した。
 真面目で正確な棋風、優れた知識と卓越した技術は、カフェ・レジャースでの聖アマ ンとのリターンマッチのときには、当時の標準レベルを 上回っていた。その第5 局が彼のスタイルを象徴している。クロックのない頃、聖アマンは9時 間半の末の疲労で39手目にブランダーが出てしまった。

聖アマン−スタントン 第5局 1843年、パリ

1. e4 c5 2. f4 e6 3. Nf3 Nc6 4. c3 d5 5. e5 Qb6 6. Bd3 Bd7 7. Bc2 Rc8 8. O-O Nh6 9. h3 Be7 10. Kh2 f5 11. a3 a5 12. a4 Nf7 13. d4 h6 14. Re1 g6 15. Na3 cxd4 16. Nxd4 Nxd4 17. cxd4 g5 18. Nb5 Bxb5 19. axb5 Rc4 20. Bd3 Rc8 21. Be2 gxf4 22. Rf1 Ng5 23. Bxf4 Ne4









2r1k2r/1p2b3/1q2p2p/pP1pPp2/3PnB2/7P/1P2B1PK/R2Q1R2 w k - 0 24

24. Rc1 Rxc1 25. Qxc1 Kd7 26. Qe3 Bg5 27. Bd3 Rg8 28. Bxe4 dxe4 29. Bxg5 hxg5 30. Qb3 g4 31. Rd1 gxh3 32. Qxh3 Qd8 33. d5 Kc8 34. Qc3+ Kb8 35. d6 f4 36. Qc5 e3 37. Qc2 Qh4+ 38. Kg1 Rc8 39. Qe2 Rh8 0-1

 おそらくスタントン最大の功績は、1851年に世界初の国際大会を実現させたことである。彼自身は振るわず4位に終わり、以後実戦から遠ざかっていく。シェークスピアの研究に没頭するようになり、1858,59年にモーフィーとのマッチを断る口実にもした。
 1857〜60年にかけて、サー・ジョン・ギルバートのイラスト付きの新しいシェークスピア集を出版する。64年には4巻組で再版された。そのテキスト は、当時としては学究的なもので、フォリオや初期のクォート版と照合 している。


 何の情報もないから書評はできない"The Chess Player's Handbook"↓は、プロジェクト・グーテンベルクに上げられていない。そこに上がっている"The Blue Book of Chess
Teaching the Rudiments of the Game, and Giving an Analysis of All the Recognized Openings
"は、序盤メインに話が進んでいる内容で、ちょっと訳す気にはなれない(汗。
The Chess Player's Handbook
1843820889 Howard Staunton

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posted by 水野優 at 13:56| Comment(3) | マスターズ(チェス近代史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月25日

マスターズ第7回:スタントン〜ロボワード

 ピノー氏の新刊『チェスの花火』についてWEB上で盛んに議論されている。批評の域を超えて批判的な論調にさえなっている。氏が 何かを背負って出版しているわけでもないのに、哲学やニューサイエンスの方へ行ってしまったと「危惧」する声まで聞こえてくると、いささか滑稽にも思 えてくる。
 チェスの新刊書はめっきり出なくなったといっても、初心者に『〜入門』といった本を先に手に取るべきという判断力がないとまで考えるのは初心者に失礼で さえある。チェスの和書という理由だけでネット通販で購入する人には、それだけの覚悟を持って買ってもらうしかない。というのは冷めすぎた意見だろうか。
 プロ将棋棋士の推薦文とルールの説明を付けていればそこそこ売れるだろうと思っているのか、「チェスの本を一冊くらい出してみよう」という出版社だから か、内容にノーチェックっぽいのは気になる。それに、『クレイジー・チェス』でさえ日本語の及第点を与えられない私としては…。


 ディヴァン・チェスクラブそしてイギリス・チェス界に君臨したのは、頑 固で怒りっぽい憎まれ屋ハワード・スタントンだった。彼は分析にも 優れていて、フィッシャーは「史上最高の序盤研究家」と評しているほ どである。スタントンは1843年に聖アマンを破って世界チャンピオンを自称した。
 その後ハルヴィッツホルヴィッツを倒して防衛し、アンデルセンモーフィーの出現までそれは続く。スタントンはチェスの著述やジャーナリスト もこなし、シェークスピア研究でも一時期高い評価を得る。1851年の世界初の国際大会開催に尽力し、講演や同時対局に駆け回り、チェスの未来に貢献した。

 カーライル州伯爵フレデリック・ハワードの非嫡出子として生まれた スタントンは、若い頃はあまり教育も受けず、父からもらった金もすぐに浪費し、しばらくは舞台の役者に挑戦した。1830年代の半ばからディヴァン等のチェス・カフェによく顔を出すようにな り、20歳までは駒の動かし方も知らなかったが、やがてイギリス中の プレーヤーをしのぐようになる。
 1841年に創刊した『チェスプレーヤー新聞(Chess Player's Chronicle)』には1854年まで編集に携わる。『チェ ス プレーヤーのハンドブック』(1847)や『チェスプレーヤーの手引 書(... Companion)』(1849)は、あらゆる序盤やゲームを分析したもので、版を重ねてフィリドールの本に取って代わった。
 著作を終えた頃には、チェス・セオリーに関する知識は他のプレーヤーとは比べものにならないほどになっていた。さらに、1844年から没年1874年ま で 『イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ』誌にコラムを連載し、1849年には今日まで世界的に使われているの形をデ ザインする。

 スタントンは、著作の中でも遠慮なく対戦相手を酷評する。彼が ルールブックだったのだ。読者からの手紙に対して書く返事も辛辣で、 注意散漫な子供のように読者を扱った。強者に対しては、高飛車に威 嚇して事実を都合のいいようにねじ曲げた。
 歳を取るほどさらに頑固になっていく。アマチュアの振りをするのを 好み、金のないときには知人を1ゲーム3ペンスで誘う。180cmほどの長身と、 サテン地に刺繍入りのベストや金の鎖付きスカーフ等でも彼は威厳を表 した。注目の的であるためにはそうしなければならなかったのである。


 以前、チェスのアップデートな情報先として紹介すべきサイトの募集をしたが、反響はなかった。量的には少ないとはいえ、maroさんの「戎棋夷説」のよ うな洗練された情報源があるから、今のところは不得手なジャンルにまで手を伸ばさないでおこうと思っている。
 最近復活されたという「テンプラ騎士団」さんの英語で弱っているという話を聞いて思いだしたが、WEB上の英単語をいちばん速く調べるには、マウスカー ソルを単語の上に置くだけで訳が表示されるソフトがある。皆さんは御存知だろうか。
 私は旧VAIOノートのバンドルソフトで「ロボワード」を使っていたが、今は以下のように翻訳ソフトに進化している。2週間無料使用できるシェ アウェア「訳しマウス」とい うのがあるので、まずはこれがお薦めである。
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posted by 水野優 at 15:44| Comment(4) | マスターズ(チェス近代史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

マスターズ第6回:カフェ・ディヴァン

 最近はなかなか新宿でゆっくり本を見る機会もないので、洋辞書をamazonで買う前に手にとって見るために、帰省の新幹線に乗る前に日本橋の丸善に久 しぶりに寄った。しかし、何と改装中で仮店舗はお話にならない大きさ。完成は再来年らしい(汗。
 実家から神戸市立博物館へたぶん初めて行った。お目当ての展示内容でもないのでそれはどうでもいいが、帰りに元町の丸善を覗こうとしたら、またない。 10年前の震災以来行ってないからそのときに閉店か移転したのだろう。たまたま近くに洋書専門店があったが英英のシソーラスさえろくに置いていなかった。
 帰りの新幹線で芥川龍之介の遺稿『歯車』を読んでいると、著者が幻覚を見ながら日本橋の丸善に立ち寄るくだりが偶然出てきた。この帰省では3回も「丸 善」と縁がありながらも目的を果たせなかったのだ(笑。最初から東京駅近くのでかい書店(何だっけ?)に行けば良かった。


 フランスのレジャースにあたるイギリスのカフェは、ロンドンのチェス・ディヴァンであり、そこで15年ほどヨーロッパ最強を誇ったのがハワード・スタウントン(1810-74)だった。19世紀中葉のロンドンには多くのチェ スクラブがあったが、このストランド通りのディヴァンが最も重要である。
 ディヴァンは1階にあったが1847年に2階に移動してシンプソン・ディヴァンと呼ばれるようになり、1886年に2階に有名なシンプソン・レストランが開店すると3階に移動した。老メンバーは3階まで登りたくないので ロンドンやウェストミンスターのクラブへと離れ、19世紀末までは強豪が残ったものの、現在ではもう指されていない。

 その良き時代には、ディヴァンはレジャース以上に社交場としての役 割を果たしていた。メンバーはソファーでくつろぎ、コーヒーを注文し、新聞や雑誌を読む。寒いときは店の四隅で薪がくべられる。チェスプレーヤー以外に も、役者芸術家政 治家などが多く出入りした。
 あるとき経営者がきれいに店内改装をして、大理石のテーブルにマス 目が石のモザイクでできた盤をはめ込んだ。信じられないことだが、ほとんどが保守的な イギリス人の常連はこれを使いたがらなかった。盤の段差がないので、ずるいプレーヤーが取られた駒をまた盤上にもどしやすいからだったという!

 イギリス人のスポーツマン精神を疑う出来事だが、残念ながらチェスのあるところに汚 い手はつきまとった。1853年のダーニエル・ハルヴィッツ(ディヴァンの常連)とヨハン・レーヴェンタールのマッチの様子を『ブリティッシュ・チェス・マガジン』で チャールズ・トムリンソンは以下のように伝えている。

 レーヴェンタールの優勢が決すると、誰かが私に聞こえる声で少年に窓の前でオルガ ンを弾くように言い、神経質で知られる彼の集中力をそいだ。彼はタバ コ嫌いでもあるので観戦者に吸わないように求めていたが、ある者はレーヴェンタールのロウソクで火を付けたタバコの煙を彼の顔に吹きかけ た。

 このマッチはハルヴィッツが1ポイント差で勝利した。


 amazonに「なか見!検索」機能なるものが加わった。まだ多くは出版社側の対応待ちだが、対応した本は、表紙から目次を含めた最初の数ページと裏表 紙(和書なら奥付も)を大きな画像で見ることができる。フォント等の見やすさや印刷の質までも分かるから、下手なレビューの立場がますますなくなる(汗。
posted by 水野優 at 14:01| Comment(8) | マスターズ(チェス近代史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月04日

マスターズ第5回:聖アマン〜「メイトを強制」2

 「水野優のチェス書レビュー」ページは長らくほったらかしで、それ以外のブログ上のレビューもたまってきて、まとめてレビューを見る人にはひじょうにア クセスしにくい状況になっている。そこで、レビューページをジャンル分けして見やすい表目次を付けることにした。まずは「終盤」本編をアップしている。
 そのかいあってか(といっても直接商品リンクからではないが)、昨日は何と8冊も私のアソシエイトから注文をいただいた。この収入規模のアフィリエイト にこれだけ力を入れる私のような者はまれだろうが、この手応えがあるからレビューや翻訳を続ける意欲が湧く。全くありがたいことである。


 ブルドネの次にフランス最強プレーヤーになったのはピエール・聖アマン(Pierre Saint-Amant)である。彼を最後にフランスのチェス界支配は終わりを告げ、フランスがグランドマスター級のプレーヤーを次に輩出するのは来世紀 のこととなる。

 聖アマンは72歳まで生きたが、チェスは47歳の年でやめている。ブルドネのような専業プレーヤーではなく、いくつもの 仕事を持っていた。1800年9月2日(一説によると12日)にモン フランカンに生まれる。国家公務員になり、1819〜21年にはフランス領ギアナに駐在する。
 パリにもどると、カフェ・レジャースの常連となる。もう一人、キングズ・ギャンビットの変化に名を残すリヴォニア出身のリョネ・キェゼリツキーは、聖アマンに引けを取らなかったが、目もくらむような攻撃を仕 掛けるわりに持久力がなかった。彼は後に発狂し、1853年に貧困の ために不幸な最期を遂げる。

 アマンはデシャペルのレッスンも受け、すぐに師匠より強くなる。しかし、彼はチェスに将来性を認めなかった。ジャーナリストや俳優業はうまくいかなかっ たが、ワイン業で大成功する。結婚するが、恐妻家となり、気性が激し く横暴な妻に振り回されることになる。
 カフェの常連は、アマン夫妻が毎日ダンスをするのにうんざりする。アマンが窓越しにもう付き合いきれないと仲間にサインを送ることもあるが、それは至福 の夫婦愛を象徴してもいた。その日最後のゲームが終わるやいなや、ア マンは飲食代を払うのも忘れ、息を切らして自宅へ飛んで帰るのだった。

 1836年にはイングランドを訪れ、最強のプレーヤーたちを打ち負 かす。7年後に再訪英したときは、その中でも最強のハワード・スタウントンに 辛くも1ポイント差で勝利する。同年パリでリマッチが行われ、自らにむち打つアマンだっが、6勝11敗4分でスタウントンに敗北する。
 その後、アマンはほとんどチェスを指していない。グランドマスターに典型的なエゴである。代わりに、創刊者ブルドネの死後引き継いだチェス雑誌『ラ・パラメデ』の編集に専念し、国家の公務にもどる。チェスでおろ そかになっていた役人としてもその後の活躍は目覚ましい。

 国防軍の大尉として、チュイルリー宮襲撃暴動のさいは、陣頭指揮を した。断固として退かず、民衆の宮殿襲撃という愚かな行為をうまく転換させたので、拍手喝采で司令官に任命される。1851〜52年にはカリフォルニアへ赴任した。
 1851年には、ロンドンでヨーロッパ中の強豪が招待された大会が行われただけに、アマンが参加 できなかったのは残念である。その後はアルジェリアで暮らし、もはや チェスは彼の生活の一部ではなくなった。そして、1872年10月 29日、馬車から投げ出されたときの怪我が元で亡くなる。


 昨日の「メイトを強制する」だが、別の意味でもおかしな表現であ る。メイトに「する」のは強制する側なのに、これでは「劣勢側にメイトすること」を強制しているようである。「劣勢側にチェックメイトされる状態」を強制 していると考えれば、何とかつじつまは合うのだが。
 このややこしさは、そもそも(check)mateという言葉が動 詞としては能動的に「メイトにする」という意味なのに、名詞では「メイトされた状態」という受動的な意味になることに起因する。分かりやすい例は、動詞で は「打ち負かす」なのに名詞では「打ち負かされること」となるdefeatで ある。これを「勝つ」と「敗北」だとバラバラに覚えては訳が分からない。

 stalemateも同じだが、「ステイルメイトにする」という優 勢側にはありがたくない能動的意味と、「ステイルメイトにされた状態」という劣勢側にはありがたい受動的意味となるため、事態がcheckmateの場合 と逆転する。もちろん日本語の常識としておかしくならないように訳せば済むことである。
 話をもどして、どうしても「強制」を使いたいなら「強制的にメイト する」とすればいささか冗長とはいえ、おかしさはなくなる。force the exchangeとかの訳は「交換を強制する」より「〜強要す る」の方が私は好きだ。「強制」は「強制的」に使う方が向いている。
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2005年10月28日

マスターズ第4回:ブルドネの続き

 元々胃腸が弱いが、最近特に調子が今一つで、カレーを食べるとすぐ胸焼けがするので、キャベツを使った料理(回鍋肉等)を晩飯に復活させることにした。 冬場を中心におでんセットでごまかしてばかりでは、どうしても野菜不足になるから仕方ない。


 1834年のマッチ、クイーンと2ピースのエクスチェンジ サクリファイスで マクドネルが快勝した15局目も載せておく。ファインは、これをチェ ス史上最初の「不滅」局と呼んでいる。

ブルドネ−マクドネル

1. d4 d5 2. c4 dxc4 3. e4 e5 4. d5 f5 5. Nc3 Nf6 6. Bxc4 Bc5 7. Nf3 Qe7 8. Bg5 Bxf2+ 9. Kf1 Bb6 10. Qe2 f4 11. Rd1 Bg4 12. d6 cxd6 13. Nd5










13 ...Nxd5 14. Bxe7 Ne3+ 15. Ke1 Kxe7 16. Qd3 Rd8 17. Rd2 Nc6 18. b3 Ba5 19. a3 Rac8 20. Rg1 b5 21. Bxb5 Bxf3 22. gxf3 Nd4 23. Bc4 Nxf3+ 24. Kf2 Nxd2 25. Rxg7+ Kf6 26. Rf7+ Kg6 27. Rb7 Ndxc4 28. bxc4 Rxc4 29. Qb1 Bb6 30. Kf3 Rc3 31. Qa2 Nc4+ 32. Kg4 Rg8 33. Rxb6 axb6 34. Kh4 Kf6 35. Qe2 Rg6 36. Qh5 Ne3 0-1

 このマッチが終わってブルドネは実質的には世界チャンピオンとなった。パリにもどって1836年には史上初のチェス雑誌『ラ・パラメデ』を創刊するが、水腫が悪化して無一文にもなってしまう。1840年にロンドンのカフェからプロとして招かれるが、給料は週にたったの2ギニー(今の 1.05ポンド)だった。
 やがて水腫の他にヘルニアも併発したため、急遽給料が引き上げられ ることになる。イギリス人に感謝したブルドネは、何とか仕事を再開するが、1840年12月13日、43歳で亡くなった。

 聖アマンまで書こうと思っていたけど、寝不足で疲れているから今回はこれまで(汗。
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2005年10月21日

マスターズ第3回:ブルドネ、マクドネル

 月末までは野暮用(本業)で忙しくてラスカー訳まで手が回らない。何とかブログの毎日更新は続けよう。暇があるときに書きだめしたいところだが、実際は コンスタントに毎日一つずつ書いている。下書きするエディターのファイルを上書きしているので何個もたまるとややこしいという単純な理由だったりする。
 近所の買い物のときに新しくできた米屋を見つけて安かったから入った。小売店に厳しい私だが、とても感じのいい夫婦でやっている店で、私が電子レンジで 炊飯している話をしたら興味深く聞いてくれた。開店セールの米5kg980円は買いだめしておきたい。激安スーパーでも990円が最安値だ。


 フランス一のプレーヤーをデシャペルから引き継いだのがブルドネである。裕福な家庭に生まれたが、カフェ・レジャースですぐにチェスのとりこになる。決まったテーブルで、毎日真昼から夜 中まで、そこそこの賭け金で指したいという者とは誰とでも指した。
 例によって、ジョージ・ウォーカーはこう記している。「体格はがっしりとした大柄で、計算能力が発達した額は骨相学的な好例である。巨 大で中身の詰まった様は、まさにナポレオンの額そのものだ。眼光は、暗闇でもよく見えるがごとく盤面を貫いた」

 ブルドネはひじょうに早指しだった。ウォーカーによると、「相手が これから触る駒の半分くらいまで手を近づけたときに、ブルドネは応手を指そうと待ちかまえている。すぐに指し返されるから相手が手を休めている暇がない。 これにはイギリス人が悩まされた」
 当時のイギリスでは強豪が育ちつつあり、筆頭はアイルランド出身のアレクサンダー・マ クドネルだった。彼はロンドンのウエストミンスター・ チェス・クラブのメンバーで、目隠しチェスの名手でもあった。1823年に腕試しにパリへ来る。

 マクドネルは、真昼から夕方までブルドネに負け続けて退散する。一方のブルドネは、その後も夜中まで他の者と合わせて40局も指し、翌日の再戦に備えて数時間眠るために帰宅した。2年後には、ブルドネがイギリスへ渡って有名になる。1825,1830年に続 いて渡英した1834年には、マクドネルとのマッチが組まれた。
 これは近代チェス史上で最初の重要なマッチだが、当時のマッチは非公式な方法に基づいていた。さほど高額でもない賞金は両者の支援者が出費し、決められた日と場所に両者は自腹でやってくる。クロックも時間設定もないから、プレーヤーは一手に何時間かけてもいい。

 対戦場所のウエストミンスター・チェス・クラブは、騒がしくて見物人との仕切りもなく、カフェでの騒音には慣れっことはいえ、集中できるのがおかしいほどの場所だった。それをさ ほど気にしないブルドネと違ってマクドネルは困惑した。
 ゲームのクライマックスに一人の不作法者が乱入する。両者に握手を 求め、盤上に身を乗り出し、局面を事細かに説明し、ついには盤の空いているところに両手を付く。その後もプレーヤーに局面に関する質問を投げかけ たりする。今日の非公式戦でも見られないようなことが起こっていた。

 熱い戦いの主役は対照的だった。ブルドネは英語を話さず、マクドネ ルはフランス語を話さない。マクドネルは陰気にゆっくり指し、短気な ブルドネは陽気に速く指す。ときどきブルドネが、マクドネルのスロー ペースにかんしゃくを起こして負けることもあった。
 5つの連続マッチで84局が戦われ、ブルドネが44勝27敗13分で勝利した。再戦の計画はマクドネルがブライト病で1835 年になくなるまで続いた が、実現しても逆転するのは難しかっただろう。以下のゲームは、14手目からのマクドネルの無理攻めを諫めるブルドネが冴える16局目であ る。

ブルドネ−マクドネル

1. d4 d5 2. c4 dxc4 3. e3 e5 4. Bxc4 exd4 5. exd4 Nf6 6. Nc3 Be7 7. Nf3 O-O 8. Be3 c6 9. h3 Nbd7 10. Bb3 Nb6 11. O-O Nfd5 12. a4 a5 13. Ne5 Be6 14. Bc2 f5 15. Qe2 f4 16. Bd2 Qe8 17. Rae1 Bf7 18. Qe4 g6 19. Bxf4 Nxf4 20. Qxf4 Bc4 21. Qh6 Bxf1










22. Bxg6 hxg6 23. Nxg6 Nc8 24. Qh8+ Kf7 25. Qh7+ Kf6 26. Nf4 Bd3 27. Re6+ Kg5 28. Qh6+ Kf5 29. g4# 1-0

 第4回に続く。
De La Bourdonnais Versus Mcdonnell, 1834: The Eighty-five Games Of Their Six Chess Matches, With Excerpts From Additional Games Against Other Opponents
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2005年10月14日

マスターズ第2回:デシャペル

 フィリドールの築いたポジショナルプレーを、次の世代のフランス人マスターたちはあっさりと忘れ去った。アレクサンドル・ルイ・デシャペル(1780-1847)、シャルル・マエ・デ・ラ・ブルドネ(1797-1840)、ピエール・聖アマン(1800-1873)、リョネ・キェゼリツキー(1806-1853)らである。
 それは時代の流れだったのかもしれない。アメリカ革命、フランス革命、産業革命が起こり、ワーズワース、バイロン、ゲーテらの新しい詩やベートーヴェン の驚くべき自由な音楽が生まれた。チェスの世界にもロマンティックな 波が押し寄せたのである。

 盤上を貫く攻撃やコンビネーション。血に飢えたチェックメイトを目 指して、ピースは容赦なくサクリファイスされる。先手のプレーヤーは(当時は白が先手とは決まっていなかった)、できるだけ早くポーンをギャンビットする。相手はこれに応じるしかない。応じなければ臆病者呼ばわりされるからである。
 それからは、攻撃、サクリファイス、コンビネーションの嵐で、驚くべきことにほとんどドローにはならない。こんなあまりまともとは言えない、最も野性的で激しく、エ キサイティングで巧妙なチェスの時代が、75年ほど続いたのである。

 デシャペル、ブルドネ、聖アマン、キェゼリツキーは、カフェ・レジャースで恐れられた四人組だった。彼らは、後にイングランドからスタウントンが来るまでフランスの優位を守ることになる。デシャペルは、多くの 点で今日のグランドマスターの先駆けと思える特質を持っていた。
 彼はひじょうな自己中かつ横暴で、大ぼら吹きの独裁者、そしてギャンブラーだっ た。戦争で手柄を立てるが、プロイセンとの戦いで右手を失い、にサーベルの傷を負う。18世紀は骨相学が全盛で、ジョージ・ウォーカーは、その傷で脳がチェス向きに再構成されたなどとまことしやかに伝え ている。

 デシャペルは、チェス以外にトランプのプロギャンブラーでもあっ た。熱狂的なチェスファンでもあるウォーカーによると、片手でカードを操る様は不思議なものだったらしい。デシャペルは、チェスを学んだことなどないとい う。
 ある日偶然、見たこともなかったチェスの対戦を2時間見ただけで覚え、その翌日、フィリドール以降最強のベルナルドに挑戦するが2敗を喫する。しかし、不屈の闘志でその翌日には全勝 し、1ポーンと2手のハンデまで与える。「何も上達していないが、3日もあれば誰もが学ぶことを理解するには十分だったさ」

 おもしろい話だが残念ながら誰も信じない。大ぼら吹きだったにせよ、デシャペルが長年最強のプレーヤーだったことは確かである。微妙なポジショナルプレーは時間の無駄と考え、ひたすら前だけを見て、駒の交換攻撃防 御よりも、チェックメイトを目指す棋風だった。
 晩年は引退も同然だった。弟子のブルドネに勝てないことに甘んじられる性格ではなかったからと、農業に転じて忙しくなったからである。作曲もしたが後生には残っていない。1832年にパリで起こった騒乱では、日頃 の言動が災いして監禁されている。

 1840年代には、ある理由から復帰を決意する。15年ものブラン クがあるのに、フランスの名誉をかけてイングランドへ対戦を申し込む。しかし、ロン ドン・チェス・クラブは、彼がチェス以外に、ビリヤードホイスト(ブリッジの前身)、カボチャ作り、それに嘘つきでもフランス一と知り、マッチは行われなかったのである。

ジョン・コックラン−デシャペル 1821年、パリ、非公式

1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. d4 exd4 4. Bc4 Bc5 5. Ng5 Ne5 6. Bxf7+ Nxf7 7. Nxf7










7... Bb4+ 8. c3 dxc3 9. bxc3 Bxc3+ 10. Nxc3 Kxf7 11. Qd5+ Kf8 12. Ba3+ d6 13. e5 Qg5 14. exd6 Qxd5 15. dxc7+ Kf7 16. Nxd5 Bd7 17. O-O Rc8 18. Bd6 Ke6 19. Bg3 Bc6 20. Rad1 Bxd5 21. Rfe1+ Kf6 22. Rxd5 Nh6 23. Ra5 Nf5 24. Rc5 Nxg3 25. hxg3 Kf7 26. Rd1 Rhe8 27. Rd6 Re7 28. Rf5+ Ke8 29. Rd8+ Rxd8 30. Rf8+ Kxf8 31. cxd8=Q+ 1-0

 負けてんじゃん(笑。7...Bb4+はないよなあ。ちなみにもう一つ残っているゲームでは、fポーン落ちと2手ハンデで同じコックランに勝っている。
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2005年10月06日

マスターズ第1話:フィリドール

"The pawns are the soul of chess." - Francois Andre Danican Philidor
「ポーンはチェスの魂である」−フランソワ・アンドレ・ダーカン・フィリドール

 丸訳ではないもう一つの新連載も始める。古い順にその時代の名手たちを紹介するというありきたりのものだが、世界チャンプ以外の人たちやそ のあまり知ら れていない部分も取り上げていきたい。元ネタは主にショーンバーグの"Grandmasters of Chess"である。


 18世紀初頭のパリカ フェは、政治家作家のたまり場となっていた。午前中だというのに、タバコやアルコールの匂いが プンプンするひしめき合ったテー ブルの間をウェイターたちがかき分けるように進まねばならない有様だった。
 有名なカフェ、レジャースには、ヴォルテールルソーディ ドロロベスピエールナポレオン(チェス好きだがマナーの悪いかんしゃく持ち)、ベンジャ ミン・フランクリンらも訪れた。

 1750〜1830年頃のパリは世界のチェスの中心で、このカフェはその総本山だったと言ってもいい。初期にはケルマルレ ガル、シリアのスタマがい た。賭けチェスの「プロ」は、セント=アマンら後のプレーヤーに受け 継がれていく。
 1726年生まれのフィリドールはこういう環境の中で育った。父親 はそのとき79歳(!)で、1650年代から続く音楽家家系であっ た。フィリドール自 身も音楽を学び、末っ子にして一族の中で最も有名な音楽家となる。そしてその才能はチェスでも開花するのである。

 6歳でベルサイユの聖歌隊に入り、優秀な生徒として作曲や理論も学 び、12歳で作曲を始める。フィリドールにチェスを教えたのもベルサイユの音楽家だっ た。夢中になった彼は、音楽そっちのけでレジャースに入り浸り、レガルに教えを乞い、目 隠し同時対局に衝撃を受ける。
 しかし、チェスで生計を立てる術はなかった。作曲やレッスンで音楽家として踏みとどまろうとするが、金策尽き、債権者たちにコンサートツアーへ行くと 言ってパリを離れるしかなくなった。それもわずかの雇われ仕事のため、アムステルダ ムで無一文になり、カフェでチェス・ハスラーを始め る。

 その後数年でめきめきと頭角を現してロンドンへ渡り、先に渡英して いたスタマを8対1で圧倒する。しかも先手のハンデとドローはスタマの勝ちとするルー ルであった。そしてアーヘンで有名な著書"Analyse du Jeu des Echecs"(チェスゲームの分析)を執筆する。
 イギリス貴族(サンドイッチの語源となったサンドウィッチ伯爵も)の支援で1749年に出版される。すぐに人気は出なかったものの、当時手に入 る最も重要なチェス本となり、後に様々な言語にも翻訳されて100以上も版を重ねた。(確証はないものの、イギリスではヘンデルに会ったに違いないと ショーンバーグは主張している)

 ロンドンでは当時としては驚嘆ものの3人同時目隠し対局を行い、ベルリンを 訪れてはフリードリッヒ大王の御前でも披露する。パリへもどるとかつ ての師匠 レガルをマッチで打ち負かす。しかし、パリの友人達は有望な作曲家がチェスなんかにうつつを抜かしてと心配していた。
 1754年にパリへもどったフィリドールは、ヘンデルの影響を受けた壮大なコラールを含んだモテットを作曲して、渡英がむだでなかたことを示す。しか し、 王は彼を宮廷音楽の監督には迎えなかったので、フィリドールは舞台音楽、オペラの 作曲へと邁進することになる。

 標題音楽の萌芽と見られる擬音的手法を開拓した彼の音楽も、今日では一部の器楽曲以外ほとんど演奏されない。バロック以前のオペラがほとんど上演されな いことを考えれば仕方ないが、近年は当時の手動式の舞台装置を復元してバロックオペラを再演する気運が高まっているから、そのうち人気が出るかもしれな い。
 オペラ作曲家として成功したフィリドールだが、ロンドンに誕生したチェスクラブか ら毎年シーズンに招待されるようになると、またチェスの虫が騒ぎ出す。 この頃から、「彼は優れた音楽家『でも』ある」と言われるほど音楽よりチェスが重要になってくる。チェスのレッスン公 開対局からも収入を得るようになっ た。

 再び心配するパリの友人たちの中でも『百科全書』のディドロは、目隠し同時対局でのの 酷使をやめるように手紙を出す。レガルの助言も踏まえた上で、作 曲の代わりに無益な「材木押し」をするのはやめてくれという内容だが、20世紀にソ 連が目隠し同時対局に時間制限を課す200年以上前に 脳の負担が指摘されていた ことは注目に値する。
 フィリドールはこの手紙に感謝し、母国にいるに心配しないように と手紙を書いた。彼の本心はどうだったかのか。本国ではまだしもイギリスでの作曲家と しての人気はなくなり、家族まで養うにはチェスで稼がざるをえなかったことがその手紙から読み取れる。

 フランス革命以後は毎年ロンドンへ招待されたが、1793年に英仏戦争が始まるとフランスへ帰れなくなる。1795年にパリへもどろうとする が、自分の 名前が亡命者リストに載っていることに気付く。帰国はを意味することになる。
 家族がリストから名前を消すことに成功するが、時すでに遅かった。1795年8月31日、ロンドンでフィリドールは帰らぬ人となる。孤独な極貧の中での 死をロンドンの新聞はこう伝えた。「著名なチェスプレーヤー、フィリ ドール氏、最後の手を指す」

 フィリドールが当時の名人達の間でも抜きん出ていたことは間違いない。ハンデなしでは誰もまともなゲームができなかった。基本原則といったものを初めて 考案し、十分に理解されるにはかなり後の時代を待たねばならないポジショナルプレーの 感覚を持っていた。
 ルーベン・ファインによると、ルック終盤のフィリドール・ポジションを初めとして、現代チェスのレベルと初めて比肩しうるマスターである。以下もファイ ンの紹介するゲームだが、シュタイニッツよりさらに奥ゆかしい棋風と いう感じがする(笑。

キャプテン・スミス−フィリドール 1790年、ロンドン

1. e4 e5 2. Bc4 Nf6 3. d3 c6 4. Bg5 h6 5. Bxf6 Qxf6 6. Nc3 b5 7. Bb3 a5 8.a3 Bc5 9. Nf3 d6 10. Qd2 Be6 11. Bxe6 fxe6 12. O-O g5 13. h3 Nd7 14. Nh2 h5 15. g3 Ke7 16. Kg2 d5 17. f3 Nf8 18. Ne2 Ng6 19. c3 Rag8 20. d4 Bb6 21.dxe5 Qxe5 22. Nd4 Kd7 23. Rae1










23...h4 24. Qf2 Bc7 25. Ne2 hxg3 26. Qxg3 Qxg3+ 27. Nxg3 Nf4+ 28. Kh1 Rxh3 29. Rg1 Rxh2+ 30. Kxh2 Rh8+ 31. Nh5 Rxh5+ 32.Kg3 Nh3+ 33. Kg4 Rh4# 0-1

 ポジショナルプレーのはシュタイニッツと言われることが多いが、 それはフィリドール以降のチェスがロマン派花盛りになってしまったか らだろう。フィリドールの 考え方がすぐに理解継承されていれば、彼が祖と呼ばれるようになっていたに違いない。欲しいけど高い〜!↓
Analysis Of The Game Of Chess
1843821613 Frangois-Andri, Danican Philidor

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