ホームページは「チェストランス」です。古い記事では図の駒が表示されません。

2006年11月30日

ファイン『チェス棋士の心理学』2 チェス概論 その4

 この純粋に防衛的な性格に加えて、チェスにおける知性化(知的認識や観念的思考によって、情緒面の重圧・不安から無意識に自己防衛する手段)には他にも多くの意味がある。チェスの傍観者にとって、外界への無関心さはチェスプレーヤーの突出した特徴である。チェスクラブ内を描写したある一連の漫画では、二人のプレーヤーがゲームを始めたときは少年なのに、終わったときには老人になっている。

 プレーヤー自身も、思考にふける傾向には気付いている。これは大会ではひじょうに困るので、手数ごとの時間制限が必要になってきた。1880年頃から は、すべての大会でチェスクロックが使用されている。クロックが使われる以前に行われたパウルセン対モーフィー戦に関しては、おもしろい出来事があった。二人は一手も指さずに無言で11時間も盤をはさんで座っていた。あっぱれにも堪え忍んだモーフィーは、ついに対戦相手をややいぶかしげに見上げた。するとパウルセンは言った。「ああ、私の番でしたか?」

 一手に何時間も考えるプレーヤーも、必要とあらば目にも留まらぬ速さで指すことができる。しばしば開催されている「快速戦("Speed" or "rapid transit")」の大会では、一手あたり10秒の時間制限で行われる。マスターはときおり「電撃戦(blitz)」さえ指す。手を即座に1秒以内に指さねばならない。これらの時間制限を使えば、一晩で数十や数百のゲーム数をこなすことができる。世界一遅いゲームが世界一速くなるのである。

 これほど著しい対照が、まさにチェスの思考過程全体の特徴でもある。大会では、通常の時間制限は40手につき2時間半である。これは、40手を既定の2 時間半以内にさせば、プレーヤーはその中での時間配分は好きにできるということである。2時間28分を例えば25手で費やしてしまうこともよく起こる。こ の場合は、残りの15手を2分以内で指さねばならない。いわゆる「時間切迫(time pressure)」である。これほど極端なプレッシャーの下で、さっきまで身動きもしなかったプレーヤーが、時間内に残り手数を正確に指しきることは珍 しくない。それまで何を考えていたの?と思われるのももっともだろう。10秒でいい手が見つかるのに、なぜ半時間も掛けるのか?

 この問いへの答は、チェスプレーヤーに絶えず付きまとう自信のなさにある。ゲーム中に生じる局面は、ひじょうに複雑になることが多い。正着をたやすく発見できる場合もそこそこあるが、ほとんどのケースでそうはいかない。何時間、ときには何日もの分析によってあらゆる可能性を調べ上げないと最善手が決められない。実戦(over-the-board)の時間内では、正着を見つけたと確信できるプレーヤーはごく少数であり、ほとんどは「局面評価」と「直観」に頼っている。たしかに上級者は初心者よりも先まで正確に読めるが、マスターが25手先まで見通しているといった素人考えは大いなる迷信である。

 この状況の中を、プレーヤーは常に半信半疑のまま進んでいく。必要なら敏速に対処して何かを試すだろうし、そうでなければ正しい答えを出せる時機まで作戦を試行錯誤するだろう。

 デ・フロートは、このプロセスを様々な仮定を実験的方法で探求する研究にたとえる。しかし、これらの間には根本的な違いがある。チェスプレーヤーは、仮定を自身の想像力の中でしか検証できない。結論に達したら、すべてをそれに賭けるしかないのである。したがって、例えば直観に頼って失敗してもやり直せる化学の研究者よりも、はるかに緊張を強いられている。

 自分の手番ではないとき、プレーヤーにはたいてい多くの自由時間があり、それは5分、10分、ときには半時間や1時間にも及ぶ。このときもプレーヤーは局面を検討すると思われるかもしれないが、それはまれである。ほとんどの時間は空想、チェスとは関係ない普通の出来事にちなんだ空想に費やされる。同時に緊張も持続している。いつまた自分の手番になるか分からないからである。

 したがって、ここにも際立った対照−手番時の不確かな焦燥と集中的な読み、手番でないときの怠惰な空想がある。その間ずっと、緊張状態も持続している。実の多くのプレーヤーがゲームで緊張を強いられることに不満を持ち、それに耐えられないか耐えるに値しないとして、多くのプレーヤーはチェスをやめる。

2006年11月23日

ファイン『チェス棋士の心理学』2 チェス概論 その3

 競技というものは、本来平等に進行する。陸上のトラック上、野球のダイヤモンド上、チェス盤上、競技者はすべて平等である。しかし、チェスには他の競技と異なる要素もある。駒はそれぞれ価値が異なり、それを中心にゲームが展開する。キングがあるために、チェスを自分と同一視することは他のゲームの場合よりはるかにたやすい注5。このため、チェスは強い自己主張に寛容的なのである。
 注5:テオドア・ライク博士は、チェスのキングに関する規則が原始的指導者に関する特別なタブーの多くと酷似することを指摘した。S. フロイトの『トーテムとタブー』第2部(b)節「支配者のタブー」参照。

 ルック、ビショップ、ナイト、ポーンも、しばしばペニスを象徴する。さらには、他の事柄も意味しうる。あるプレーヤーは、ビショップは超自我が実体化した性的満足をもたらすものと見なした−文字通り精神的監督者というbishopの別の意味でとらえたのである。ナイトは、馬を象徴しうるし、ときどきそう呼称されることもある。

 ポーンは子供、特に幼い少年を象徴している。ポーンは8段目に到達すると成長(昇格)できるが、ここで再び重要なのは、ポーンは「キング」にはなれないことである。象徴的なことに、このポーンの昇格制限が、父親とのライバル関係の破壊的な側面を強調する一方で、少年が父親のようになれるという建設的な意欲をくじかせている。したがって、チェス棋士の中には権威へ対するひじょうに批判的な態度がある反面、父親としては息子を棋士にはさせないかさせたくない心情があると予想されるのである注6。万能のキングと弱小のポーンの対照もまた、チェス棋士の自己イメージに付きものの両面価値(ambivalence:愛と憎しみのような相反する感情を同一の対象に抱くこと)を象徴している。この両面価値は、キングそのものの性格の中に も明らかに見いだされる。
 注6:著者の私見によると、息子ともども強豪であるチェスの名人はほとんどいない。父親は、無意識に息子の参入を認めないのではないか。

 クイーンは、予想されるように、女性、または母性を表している。チェスがヨーロッパへ紹介された13世紀までは、クイーンは今日のような強力な駒ではなかった。これは、明らかに東洋と西洋で女性に対する態度が違うことが直接反映しているのである。ジョーンズは、精神分析の結果、キング(父親)に対する攻撃においてクイーンが最大のサポートとなることが分かっても驚くには値しないと述べている。

 まとめると、チェス盤全体が直ちに家族の状況を象徴しうるということになる。これでチェスの魅力に納得がいく。思索にふけりながら、プレーヤーは現実にはできないことを空想のなかで実行できるのである。

 さて、チェス棋士の自我に目を向けると、まず棋士は基本的に知的防衛力を行使していることが注目される。チェスにおいては、思考が行動に取って代わるのである。ボクシングのような他のスポーツとは対照的に、チェスでは身体的な接触は全く起こらない。テニスやハンドボールにおいて両者が同じボールを打ったり投げたりするような間接的な接触行為すら生じない。チェス棋士が相手の駒に触れるのはその駒を取るときだけであり、ルールに従ってその駒は盤上から取り除かねばならない。

 プレーヤーが強くなるほどに、駒に触れるタブーも厳しくなる。マスター級のチェスでは、「タッチ・ムーブ」のルールが見られる。駒に触るとその駒を動かさねばならないのである。故意に触れるときは、"j'adoube"(フランス語で「(駒の位置を)直します」の意味)と言わねばならない。このルールが 適用される場合は、これをフランス語で言う必要がある。

 通信チェスと言われるゲームのやり方では、二人の距離が互いに決して会えないほどの距離になることもある。ゲームはすべて郵便で行われる。この場合はピースに触ってもいいが、両者が顔を合わすことはない。

 チェスの豊富な男根的象徴を考察すると、駒に触れるタブーは知らず知らずのうちに2つの意味を含んでいる、または言い換えると、自我は2つの脅威を回避していることになる。その一つは自慰である(ペニスに触れるな。駒に触れるな。触れるには許可が必要)。もう一つの脅威は、同性愛、つまり二人の男の肉体的接触、特に相互自慰である。


 なかなかこなれた文章にできないが、最初の辺り「自分と同一視すること」は原文ではidentification processである。これはでかい辞書では「同定過程」などという心理学用語の訳があったりするからそのままにしておきたくもなるが、このへんまで大な たを振るわないとこなれてこないのだろう。

2006年11月16日

ファイン『チェス棋士の心理学』2 チェス概論 その2

 数あるゲームの中でも、チェスは特別な位置を占めていると一般に思われている。チェスは、「忠誠のゲーム」「王のゲーム」「ゲームの王様」などと呼ばれる。イギリスの国会議事堂の敷地内で行ってもいい唯一のゲームでもある。ある才人は言った。「チェスはゲームとしては難しく、科学としては簡単すぎる」。チェスで得られる楽しみは、現に他の暇つぶしを凌駕する。たしかに、チェスはもっと芸術や科学に近いものである。

 チェスは、二人の男の対決であり、そこでは自我がはなはだしく関与する。それは何らかの点で、アナル男根期にとりわけ顕著な攻撃性、同性愛、自慰、自己愛を取り巻く対決ともたしかに関連している。したがって、イド心理学の観点から、ジョーンズの考察はつまびらかなまでに立証されうる。チェスは、たいてい遺伝のように父や父親代わりの者から息子へと教えられるので、息子と父親のライバル関係をもたらす媒体となる。

 チェスの象徴性は、このライバル関係をひじょうに変わった方法で示すのにおあつらえ向きだ。その中心は、キングというキャラクター(figure)であ る注3。キングは、ゲームのあらゆる点できわめて重要な役割を担っている。キングは、ゲームの名前にもなっている駒である。なぜなら、chessはペルシャ語でキングを意味するshahに由来しているからで、それは他の言語でもほぼ同様である。現に、普遍的な3つのチェス用語chess, check, Kingは、すべてshahに由来する。他の駒の名称は、言語によって異なる。例えば、Queenはロシア語で女性とは無関係のFyerzで表す。ビショップは、フランス語ではFouつまり道化師だが、ドイツ語ではLaeufer走者である。
 注3:チェス書では、駒の名前を大文字で始めるのが慣例なので、著者もそれにならう。

 キングがなければ、チェスは盤上の単純な論理的構築物となる。チェスには、斜めに動く駒(ビショップ)、縦横に沿って動く駒(ルッ ク)、前進しかできないが、端まで進むと他の動きができるようになる(昇格)駒(ポーン)、縦横斜めに何マスでも動ける駒(クイーン)、あらゆる方向に1マス動ける駒(キング)、縦横の動きが組み合わさって他の駒を跳び越えられる駒(ナイト)がある。新たな駒を考案したり動きを分割したりすることは可能だし、しばしば行われてきた。例えば、ナイトとクイーンの動きを合体させた駒が提唱されたことがある。また、2種類のルック−2種類のビショップでも同様だが、一方は横に沿ってのみ動き、他方は縦にのみ動く等も考えられる。これらの変更はすべて現状のルールを直に拡張するものだが、ゲームの基本的性格までは変えないだろう。

 盤上競技は、基本的に盤上に置かれた駒によって成り立っている。チェッカーのように敵の駒を取れるものもあれば、チャイニーズ・チェッカーのように既定の場所へ駒を移動するものもある。それらをやり遂げれば勝ちとなる。そこで、チェス独特の特徴となるのが、キングをチェックメイトするという目的である。全く新たなルールを組合せてチェックメイト方法の可否を決め、これらのルールがチェスを独特の形式にしている。もちろん敵の駒を取ることもできるが、他のゲームと違って敵の駒をほとんど取っても負けることがある。

 したがって、キングは欠くことのできない最も重要な駒となる。代用が効かないとも言える。理論的には、ポーンが昇格すれば9個のクイーンや10個のルック、ナイト、ビショップはありえるが、キングはただ1つしかない。

 不可欠、最重要、代理不能というこれらの性質は、東洋の最高統治者を想起させる。しかし、大きな違いもある。キングは駒としては弱い。その能力はひじょうに制限されている。他の駒でおよそ等しい価値を表してみよう。例えば、3つのポーンは1つのピース(ナイトかビショップ)と等しく、2つのピースは1つのルックと1つのポーンに等しい。キングは、その性質のために等価な駒では表せない。しかし、だいたい1つのポーンより少し強いが、どのピース注4よりも弱い。したがって、キングはゲーム中はほとんど隠れ(キャスリング)ていなければならない。キングが出撃できるのは、多くの駒の交換後、特にクイーンがなくなってからである。キングが最も重要な駒といっても、他の駒がキングを守らねばならず、キングが他の駒を守るのではない。
 注4:厳密には、キングは全然「ピース」とは見なされていない。用語的には、ポーン、ピース(メジャーとマイナー)、キングを区別して呼ぶ。

 著者の確認できる範囲では、(26)駒の性質にこれほど明確な違いのある盤上競技は他にない。例えば、チェッカーではキングは単に能力が拡張された駒に過ぎず、他の駒の同様に取られることもある。キングは、文字通りチェスを独特のゲームにしている。

 したがって、キングはチェスの象徴化の中で中心的な役割を果たす。要約すると、キングは不可欠、最重要、代理不能だが、弱くて保護を必要とする。これらの性質が、この象徴的意味を重複決定(over-determination:無意識に複数の規定要因が関与すること)することになる。第一に、キングは男根期の少年のペニスを象徴しているので、その時期に特有の去勢不安を喚起する。第二に、キングの表す上記の性格は自己イメージの形成に本質的なものなの で、自らを不可欠、最重要、代理不能と考える男性に訴えかける。そこにもう一つ付け加えるとすれば、自己愛をめぐる葛藤である。第三に、キングは少年サイズに縮小された父親である。無意識のうちに、少年はキングによって父親と話す機会を与えられている。「外の世界ではパパは大きくて強いかもしれないけど、結局僕と同じで、パパも弱くて守ってもらわなくちゃならないんだね」。


 phallic phaseは男根期で、前にanal-が付いているのはアナル男根期としたが、文脈的には違いがあるとは思えない。チャイニーズ・チェッカーは、日本でダイヤモンド・ゲームと呼ばれているあれである。boardは盤、gameはゲームとしているが、boardgameは盤上競技とした。
 キングの(終盤の)駒の動きとしての強さは通常ポーン4個分とされているので、ファインの評価は中盤を想定しているとはいえずいぶん低い。注4に関して、本書のような内容だと限定した意味で「ピース」を使う必要はあまりないだろう。ファインは、マイナーピースの意味でピースと呼ぶこともある。
 今回分から次回にかけての原文はhttp://chess.eusa.ed.ac.uk/Chess/Trivia/psychology.htmlで読める。

2006年11月09日

ファイン『チェス棋士の心理学』2 チェス概論 その1

 チェスは、西洋文明の中で最も古いゲームの一つである。大概の歴史家たちは、その起源を紀元600年か700年頃のインドと推定している(12)。ヨー ロッパへ伝播したのは13世紀である。

 しかし、チェスが世界的に広まったのはここ100年くらいのことである。最初の国際大会は1851年のロンドンで開催された。それ以来、国際的な競技会 が定期的に行われるようになる。あらゆる文明国でほぼ同じ形態で競技されるために、チェスはまさに国際的コミュニケーションの役割を果たしてきたのである。

 チェスに関する文献は、マスターによる自局選集から上達法を教える指南書に及ぶが、今やその割合は、他のゲームに関する文献の総量を上回っている。

 現在、チェスはソビエト連邦でたいへんな人気を博しており、事実上の国民スポーツとなっている。

 チェスをする多くの人々にとって、ゲームは特別に魅惑的なものである。ゲーム中は他のこと−妻、友人、家族、仕事−をすべて忘れられる。チェスにはチェスだけの世界がある。ゲームは何時間、ときには数日も続けられ、外界の考え事はすべて棚上げされる。どのチェスクラブにも、たいてい一人くらいはチェスのために人生の他のことを棒に振ったプレーヤー−チェスを食べ、チェスを考え、チェスで眠る−がいる。中には、貧しいながらもプロとしてチェスで何とか生計を立てる棋士もいる。しかし、ほとんどは熱狂的な愛好者に過ぎない。

 チェスのせいでこのような世捨て人になる誘惑のために、多くの人々は実際に危機感を持つようになり、チェスを全くやめたり、他の心配事が片づくまではやらないようになる。

 17世紀の無名の聖職者が、チェスが発するこの種の魅惑を生々しく描写している。彼はそれを「チェスの邪悪(The Evils of Chess)」と呼ぶ(20)。


 I. チェスは、たいへんな時間の浪費である。どれほど多くの貴重な時間(決して取り返せない)をこのゲームのために数多費やしたことか!

 II. チェスは、私の魅力的な財産となった。私はチェスに魅了される。ゲームを始めると、やめる気が起こらない。

 III. 私がチェスに夢中でも、チェスは私にかまわない。チェスは、私の勉強や説教にも付いてくる。祈りや説教のとき、私は(頭の中で)ずっとチェスをしてきた。あたかもチェス盤が目の前にあるかのように…。

 IV. チェスは、私に数多の宗教上の決意、そればかりではなく誓約や約束をも破らせた。威儀を正して一度に多くの友や誰か一人とでも対戦することを自らに課すこともあった。再び、宗教上の義務や約束を放棄したのである。

 V. チェスは、私の道義心を傷つけ、平穏を破る。厳粛なときは、後悔したものである。今死なねばならぬとすれば、チェスの思い出が走馬燈のように脳裏を駆けめぐるだろう。私は有名なジョン・フス(John Huss 1369?-1415 異端として火刑に処されたチェコの宗教改革者)の生涯を読み、処刑直前にチェス中毒でいかに悩んでいたかを知った。

 VI. 私のチェス中毒は、受難としての多くの罪や不和、怠惰な(偽りでなければ)言葉を、私自身や対戦相手、その双方にもたらした。私のチェス中毒は、神と人々の両方に対する数多の務めをないがしろにさせた。


 愛好者がチェスに抱く魅力と好対照なのは、無関心な部外者の態度である。彼らは、チェスを冷淡でつまらなく退屈で、高度に知的なハイレベルのクロスワードパズルのようなものと見なす傾向がある。だから、チェスが誘発する興奮の嵐には全く応えられないのだろう。

 チェスは基本的に男が行うものである。あてになる正確な統計はないが、プレーヤーの男女比率はおそらく100対1くらいだろう。チェスが国民的娯楽のロシアでさえ、女性はチェスに男性ほどの興味を示さない。女性で唯一、ヴェラ・メンチク(Vera Menchik 1906-44 チェコ)は、男のマスター大会で張り合ってポイントを上げることができた。状況は、橋の両端のように正反対である。現在は女性プレーヤーも多く、マスター、ライフマスターやチーム世界選手権メンバーのレベルにまで達している。

 チェスをするにはある程度まで知性が発達している必要がある。8歳未満の子供がゲームを楽しむ能力を得るのは難しいし、通常10歳未満では心底チェスに集中することはできない。

 チェスの技能には高度な知性が必要だという印象が一般にはびこっている。ロシア人心理学者の研究やレシェフスキーが受けたテストはこれを支持しないが、だからといって、さらに慎重な探求を行わずにこの一般的認識を退けることも正しくない。デ・フロート(10)の歴史的調査は、チェスの名人が他の分野でも同様にすばらしい業績を残していることを示しているのである。

 チェスへの興味は、人生のある時期に集中するケースが多い。最初の波はたいてい前思春期、10〜12歳頃にやってくる。次は、青春期の早期に少年たちが ゲームに夢中になっているのをよく目にする。例えば、高校のチェスクラブは最大規模の場合が多いが、大学ではそれほど重要ではない。最後は、中年を過ぎた男性が長年のブランクを経てチェスに復帰するケースが多い。

 プレーヤーの観点からチェスを「情熱」のゲームと見なすことには、誰も異存がない。多くの少年や男性は、チェスを人生の主たる関心事の一つとして取り上げている。研究し、本を買い、昼も夜もゲームをし、他のプレーヤーと郵便や電信までも使って対戦する。この頃の大目標は上達して仲間を負かすことで、努力はすべてその方向へ向けられる。ライバルを追い抜く快感は、学校で高得点を取ることや仕事の昇進に匹敵するほどである。上達が続くかぎり、プレーヤーは夢中で居続ける。しかし、やがて停滞期が来てどういうわけか先へ進めなくなる。この時点で多くのプレーヤーは興味を失い、チェスにあてる時間を減らすか全くやめてしまう。残りの少数の人々だけが、終生チェスに執着するのである。


 タイトルもそうだが、playerを「棋士」と訳す場合が最近多い。しかし、アマチュアを棋士と言うには抵抗がある。実際、広辞苑でも棋士は「囲碁また は将棋を職業とする人」となっている。そこで、今回の内容のようにアマチュアを含む場合は、「プレーヤー」も併用した。「プレイヤー」との混在問題からせっかく逃れられたと思ったのに(汗。
 中学英語の書き換えHe plays tennis.→He is a tennis player.に抵抗を感じた人は多いと思う。だからプレーヤーも本来はプロを意味する言葉だ。しかし、毎度「チェスをする人々」では煩雑だし、「チェス 愛好者」だと鑑賞だけの人も含んでしまう。

 内容にもあるように時代的にチェスが男性のものとされているので、peopleやpersonsと同義にも取れるmenはニュアンスを生かしてそのまま「男性」とした。それより、メンチク以下の訳に今一つ自信がない。聖職者の6条は古英語で書かれているのであえて直訳調にした?(汗。

2006年11月02日

ファイン『チェス棋士の心理学』1 文献批評 その2

 ロールシャッハ・テストの主要結果は以下のようだった。反応数は5〜88と変動し、全反応数は3〜30(標準以上)、静的対象は15〜60%、色反応は 0〜7(6人が色に無反応)、動的反応は1〜4(9人が動きに無反応)である。

 ロールシャッハの分析結果は、さらなる解釈がロシア人心理学者によってなされていない。これ以上のデータがなくても、被験者の人格を描く様相が抑圧 された様相−ロールシャッハの用語では−抑圧された(coartated)個人(無色、非動的)であることは明らかである。この種のロールシャッハの解釈 によれば、ロシア人心理学者の発見のいくつかは説明が付く。ロールシャッハは以下のように述べている(34)。


 抑圧型と深刻なレベルの抑圧型は、意識的な集中で注意力を極限まで高められる特徴を持っている。抑圧されたり抑圧的になる型とは、まず第一に論理的思考に束縛される者である。しかし、これは対外的に緊張を強いられる内向的で極度に衰退した性向−体験能力の犠牲によるものである。


 ロールシャッハの記述によると、2つの一般人との相違点が浮かび上がる。同時に生じる別々の事象に対する鋭い注意力と、抽象的な数的思考力である。それと同時に、これらは人格の他の側面を犠牲にして得られたのだから、他のテストにおいて劣っていることが、生来の能力ややる気の不足、機能退化(情緒障害)のせいとは言えないのである。

 現在西側のナンバーワンであるサミュエル・レシェフスキーは、神童と呼ばれていた9歳(5歳でマスターのレベルに達した)のときに、スイス人心理学者フランツィスカ・バウムガルテンによって一連の精神測定テストを受けた(2)。言語能力が平均未満なので、全般的な発育状態もベルリンの5歳児のそれに及ばなかった。唯一突出したテスト結果、それは数の記憶に関するものだった。したがって、フランツィスカの結論はロシア人心理学者と同様である。しかし、彼女の方法論も誤っており、サミュエル少年がちゃんと通学せずに何年もチェスに夢中になっていたことを考慮しなかった。レシェフスキーは後にアメリカの大学を卒業し、とにもかくにも平均以上の知性を示した。

 ブッテンヴィーザーは、マスターの年齢によるチェス能力の低下度合いを測定しようとした(5)。その研究によると、50歳以前には能力の低下はなく、 50歳以後も比較的少なく、概して強い棋士ほど低下は少ない。後に見るように、精神病もチェスの能力にはあまり影響しない。技能は、いったんある程度のレベルまで達すると無期限に維持できるようである。

 1938年に、チェスのマスターでもあるオランダの心理学者A. デ・フロート(10)は、多数のマスターと幾人かのアマチュアの思考過程を分析した。おそらく最も有益な発見は、局面を分析するチェス棋士の思考過程が、 問題を解決する研究者のそれとよく類似していることを立証したことである。チェス棋士は、正着を見つけるまでに絶え間ない緊張と半信半疑の状態におかれ、多くの場合どの手が正着か確信を持つことができない。

 精神測定技術と因子分析に熟達した今日の心理学者にとっては、チェスの名人に総合テストを実施してその中からチェスの技能に相互関連する能力を抽出することはたやすいだろう。しかし、そういう研究がなされていないために、上記の研究結果のみが示唆的と考えざるを得ないのである。


 ロールシャッハ・テストの結果が表す数値の意味が分からない(汗。被験者は12人だが反応数はそれを上回っている。このテストは10枚のインク染みを見 せるのが1セットらしいから、のべ120反応数に対する数値だろうか。テスト結果の傾向が分かればいいとしても、ファインの引用は不親切すぎる。元々精神分析学会誌に発表されたものだから仕方ないか。

2006年10月27日

ファイン『チェス棋士の心理学』1 文献批評 その1

1 文献批評

 精神分析について書かれた文献の中では、1930年に英国精神分析協会で発表され、翌1931年に出版されたアーネスト・ジョーンズの『ポール・モー フィーの問題』(23)と題された古典的な研究が、チェスに関するものとして挙げられる。

 この深遠な論文は、ほとんどが後に触れるポール・モーフィーの病理記述に関するものである。チェスにおける心理学のより一般的な疑問に関し、ジョーンズは以下の諸要素を強調する。チェスは、明らかに戦争の技術的代用品である。棋士を駆り立てる無意識の動機は、すべての競技に特有な単なる好戦性だけではなく、父殺しの残酷さでもある。ゲームの数学的性質は、チェスを一風変わったアナル・サディスティックな性格にしている。戦局を圧倒的に支配する棋士の感覚は、そこから逃れられない対戦相手の感覚と対照を成す。このアナル・サディスティックな特徴は、同時にチェスの同性愛や父子対決の敵対側面を満足させるためにも都合がいい。

 カープマン(24)、コリアト(8)、メニンガー(31)、フレミング(17)による他の論文は、ジョーンズの主張を十分に補足していない。いずれもが、同性愛と敵対衝動がチェスにおいて昇華されていることに同意している。

 この種のアプローチは、本能的葛藤を論じることに終始している。チェスのある種の特徴に光明を投じながらも、他の多くの要素には目をつぶっている。結局のところ、父親に敵対するか服従するかという葛藤は、二人の男の間にはどこにでも見られる。現代、特に過去30年の間に精神分析がエゴにより注目するようになったように、潜在的な本能的葛藤を誰もが持っているからである。本書の目的は、エゴ(自我)やイド(本能的衝動の源泉。エゴによって修正される)の観点から、チェス棋士と他の人々とを分け隔てるものは何かという疑問に迫ることである。

 いくつかの興味深い研究を含む心理学文献をここで簡単に要約しよう。

 1925年にモスクワで行われた国際チェス大会で、3人の心理学教授、ジャコフ、ペトロウスキー、ルディクは、参加者から12人を選んでロールシャッハ を含む一連の心理学的テストを行った。12という少人数と被験者の名が伏せられた理由は明らかにされていない。結果は出版されてドイツ語への翻訳が入手可能である(11)。

 テストは、以下の事項を記録するために様々な精神測定機器が用いられた。

 1) 記憶力
  a) チェス盤の記憶と把握(理解力(Aufnahmevermoegen))
  b) 駒の配置の記憶力
  c) 数の記憶
  d) 幾何学図形の記憶

 2) 注意力
  e) 注意範囲
  f) チェス盤への集中力
  g) 分配注意力(同時に別々のことに注目できる能力)
  h) 動的注意力(連続する刺激に対する注意力)

 3) 連結的および知的機能
  i) 盤上に7つのクイーン
 脚注:盤上の7つのクイーンをどれもが互いに取られないように配置する問題。
  j) 数列(論理的数列)
  k) 知的作業の速度(抽象的刺激)
  l) 知的作業の速度(具体的刺激)

 4,5) 想像力と心理学的類型(ロールシャッハ・テスト)

 精神測定テストでは、チェスのマスターは、局面の記憶といったチェス盤と駒に関するあらゆる作業において圧倒的に優れていた(それ以上の記述はない)。 しかし、それ以外のテストで優れているのは2点のみだった。同時に別々のことに注目できる能力(分配注意力 (Aufmerksamkeitsverteilung))と抽象的思考(数列)である。チェス棋士が高知能、優れた記憶力と集中力を持っているという通 念は確証された。しかし、実施されたテストは今日の水準からするとひじょうに未熟でその方法もつたないため、これらの結論に導けるほどの価値はほとんどな い。


 いきなり第1章5ページ全訳のつもりだったが、ロールシャッハ・テストについての記述が難しいので後半を来週に回すことにした(汗。心理学(精神分析)に関する基本的な知識はあった方がいいが、全体的にはチェスの歴史やチャンピオン等の話が多いので気楽に楽しめる。括弧内の数字は巻末の参考文献を示すが、ブログでは文献名を省略する。
 父殺し(father-murder)、父子対決(father-son contest)はこのまんまで良かったかしらん。フロイトはもう記憶の彼方へ。anal-sadisticは日本語にすると生々しいのカナのままにした。私にも縁が浅からぬものだが(汗。
Psychology of the Chess Player
0486215512 Reuben Fine

Dover Publications Inc. 1956-12
売り上げランキング :


Amazonで詳しく見る
by G-Tools