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2007年07月20日

ファイン『チェス棋士の心理学』付録:アーネスト・ジョーンズからの二通の手紙

1956年1月25日 
拝啓、ファイン様

 貴殿の論文を拝読する栄誉に預かるとともに、存分に堪能致しました。これは、たしかに私の研究の延長線上にあるものです。

 貴殿のpsa[精神分析]解釈に関しては全面的に賛成で、ほとんど付け加えることはありません。私には、宰相(Grand Vizier)の駒が女王へ変化したことが依然として不可解に思えますが、貴殿は女王を根源的なものと見なされたようですね。おそらく、これらの背景には母と父の男根問題が潜んでいるのでしょう。

 62ページ(訳注:原書なら第3章の最後)の興味深い処方(Verschreiben)については、アリョーヒンよりカパブランカを好まれる根拠と解釈しました。人格的にも十分理解できることです。他にささいな提案事項をいくつか鉛筆で書き込みました。

 モーフィー−スタントン事件に関しては、ずいぶん扱いが軽いと思いました。モーフィーがアンデルセンよりスタントンにこだわった証拠はたくさんあります。その背景には、早期の否定的父親転移(negative father-transference)があったに違いありません。モーフィーの初期の発言、スタントンの「ひどすぎるゲーム」を覚えていますか。彼を 倒す必要があるかのような発言です。

 (カパのような)かなり早指しの棋士が、ほとんどノータイムで最善手を指してから瞑想や白昼夢にふける自信喪失状態に陥り、時間切迫で悪手に走るという奇妙な行動には、触れておく価値がありそうです。カパのような棋士にはあったであろう自信がいかに重要かを示しています。

 私自身のチェスへの興味は変わった道筋をたどりました。10歳のときに父親からルールを教わったまではよくある話ですが、父には、ポケットチェスセットを持ち歩いている者とは指さないようにと警告されました! おかげで、働き過ぎの人生の中で指したゲーム数は数えられるほどです。空襲でロンドンを離れて今の田舎家に住み始めてからは、患者が減って余暇が増えました。私がチェスにかけがえのない意義を見いだしたのは、その63歳のときです。有名な書籍をほとんど読み尽くし、十冊以上の対局集と隔週チェス雑誌に載っているゲームを並べました。そして、郵便戦を6局指しています。実践も、並のアマチュア相手な らそれほど引けは取りませんし、チチェスター・チェスクラブの会長にまで祭り上げられましたが、あまり顔も出しに行けません。貴殿の定跡(Chess Openings)や基本終盤(Basic Endings)に関する名著もありますが、それを活用できるほどの記憶力がもうないので、ひじょうに明解な貴殿の『世界の名局集(World Great Games)』を堪能しました。今取り組んでいるチェルネフ(Chernev)の『1000名短局集(Thousand Best Short Games)』は、15手か20手ほどで対戦相手に簡単には見破れない作戦を教えてくれる点で最高に狡猾です!

 サンフランシスコのコルビーが少し前に居て、チェルネフの数局を逆に並べてくれました。

 では、大いなる感謝を込めて。

敬具  
アーネスト・ジョーンズ 



拝啓、ファイン様

 チェスに関する論文を送っていただき、ありがとうございます。初めて見たときから、ずいぶん進展しましたね。名作として残り続けると思います。

 ニューヨークで直接お会いできてとても楽しかったです。貴殿の方が私より大西洋を越える機会がおありでしょうから、その節はぜひとも拙宅へお寄りいただければと願っております。

敬具  
アーネスト・ジョーンズ 



 ファインは、本論文が草稿の段階からフロイトの高弟ジョーンズに送って意見を求めたようである。1通目の手紙ではジョーンズが晩年に余暇ができてやっとチェスを楽しめるようになったことがうかがえる。2通目には日付がないが、二人がNYで会ったことが分かる。
 1通目の最後辺り「チェルネフの数局を逆に並べてくれました」は、原文でplayed a couple of Chernevs on me in reverseだが、このin reverseは何が逆なのかが分からない(汗。

 最後の「参考文献」はHPにのみ掲載するのでブログでの連載は今回で終了する。やはり「読み物」は思ったより難しくて時間がかかったが、精神分析という貴重な副産物が手に入った。この枠は、次回からAnthony DickinsのA Guide To Fairy Chessを連載する。

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2007年07月13日

ファイン『チェス棋士の心理学』5 要約:チェスの理論

5 要約:チェスの理論

 チェスは二人の男による競技なので、チェス自体がとりわけ攻撃性を取り巻く葛藤に取って代わられやすい。他の本能的衝動は、主として肛門男根的成長段階期に関係している。通常、それは思春期前か思春期に学習され、成熟を目指す自我の一部を形成する。

 チェスの記号化は、これらの葛藤を説明するのに打って付けである。その中心はキングという駒であり、極めて重要でありながら駒としては弱い二面性から以下の3つの意味が派生する。キングが表象するものは、男根期の少年のペニス、男性の自己イメージ、少年サイズに切り詰められた父親である。キングは、駒の機能的にも心理学的にも特異で、チェスに独特の風味を醸し出している。

 チェス棋士の自我は、様々な知的防御を行使する。それは、思考が行動に取って代わるといった単純なものというより、思考と行動間の関係変化である。知的能力自体はスキル獲得のために必要とされるが、自我はこの知的能力を十分に活用できねばならない。攻撃性は深く抑制される。個人的な戦闘状況とキングの象徴化を通して、かなりの自己愛的満足感を得ることができる。

 多くの点で、チェス棋士の自我は明白な同性愛者のそれとは正反対である。チェス棋士は不安に対する忍耐力が顕著で、原始的目標への欲求から自己を解き放し、自己が真の実現へ向かうように衝動エネルギーを無力化できる。自我の弱さは、主として自己愛要因の増大に原因がある。

 したがって、チェスは本能と自我の双方に喜びをもたらす。この度合いは様々で、これがチェス棋士に型にはまった「タイプ」がない理由である。

 旧世紀からの9人の世界チャンピオンの考察から、2つの人格グループ、「ヒーロー」と「ノンヒーロー」の存在が明らかとなった。ヒーローたちはチェスを自己の全能空想を満足させるために利用し、やがて程度の差こそあれ退行の症状を示す。しかし、実際の精神病の診断によれば、退行は極端なものではない。

 ノンヒーローたちは、チェスを多くの知的作業の一つと見なしている。チェス棋士は、様々な経歴を持つとはいえ、主に知的分野に従事している場合が多い。全体的に、ノンヒーローのチェスマスターたちは、別のジャンルでも同様に高い業績を修めている。彼らは心理学的にきわめて健全で、ヒーロー組のような精神障害の症状を呈さない。

 平均的なプレーヤーも、人格においてはチャンピオンたちと同様と考えられる。彼らは、主として科学的分野に従事するのだろう。チェスが壮大な空想を満足させるために利用されている場合や、単に知的興味のはけ口の一つになっている場合もあるだろう。それらの違いは、チェスによって平均的な知的活動よりも本能的な満足感を得られるかどうかによる。


 まとめが「チェスの理論」というのも変だが、あくまで精神分析的理論である。この第2段落はもう2年ほども前に原書のレビューをしたときに紹介している。あまりおかしな訳でなくてほっとした。最初からちゃんと読まずに本章だけ訳すことに比べれば、徐々にここまでたどりついたのはいい勉強になったと思う。
 次回はいよいよ最終回。↓画像が復活してる。

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2007年07月06日

ファイン『チェス棋士の心理学』4 チェス棋士の精神病 その2

 メキシコ人マスター、カルロス・トーレ(Carlos Torre, 1904-1978)は、名声を獲得した直後に精神病の発作に襲われた。メキシコからの移民として、トーレはニューオーリンズに生まれ、11歳のときにニューヨークへ移住した。弱冠20歳で(1925年)ヨーロッパへ渡り、多くの国際大会で成功を収める。1925年のモスクワ大会では、たまたま21歳の誕生日にエマヌエル・ラスカーに勝利した。トーレは、前途有望な世界チャンピオン候補と見なされるようになる。メキシコ政府は、まだ1910年に始まった革命の余波の中にあったが、寛大な報酬とチェス活動に必要な援助を約束し、トーレをメキシコへ召還した。その約1年後にニューヨークで発作が起こる。五番街を走るバスの中で素っ裸になったのだという。入院後、メキシコのモンテレーへ送り返され、3人の兄弟と医師たちの介護を受けている。それ以来、トーレは モンテレーを離れず、国際大会には全く参加していない。1934年には、モンテレーで少し対局した。トーレは明らかに異常だが、明白な精神病の特徴を示してはいない。大会から8年も離れていたので、チェスがやや衰えたと思われるかもしれない。実際は、技術的な観点から見て、レベルはほとんど衰えていない。

 トーレには、目立って奇妙なところがあった。熟睡できず、夜は2時間以上寝なかったと言っている。パイナップル・サンデーに目がなく、日に10〜15個も食べていた。浪費の原因になるからといって、仲間に女性と付き合わないようにと警告した。

 モーフィーと明らかに類似したケースである。年齢的にもほぼ同じで、故郷へもどり、引きこもり、チェスを指さない。モーフィーの幻覚が一つ思い出される。共謀した義理の兄と親友ビンダーに服を切り裂かれるいうものである。トーレの精神病も、バスの中で衣服を脱ぐことから始まったのだ。

 ポーランドでのチェス大会中に、アキレス・フリードマン(Achilles Frydman, 1905-1940)というポーランド人マスターが発狂し、丸裸で「火事だ!」と叫びながらホテルを駆け抜けたという報告がある。

 何年か前にヨーロッパの大都市のチェスクラブで、ある強豪プレーヤーが頭から足までコートで覆った出で立ちで現れた。やにわにコートを開くと、その下には一糸まとわぬ姿が露わになったという。男は入院したが、すぐに回復した。

 これらの実例では、多くのケースで自己顕示欲が精神病の形(露出症)で出現している。アリョーヒンのような他のケースでは、風変わりな自己顕示欲が観察されてきた。

 晩年(1929-1935)に際して、ロシアからの亡命マスター、アーロン・ニムツォヴィッチ(Aron Nimzovitch, 1886-1935)は、医者からもっと運動するようにと言われていた。彼はこの助言に従い、大会中でさえ柔軟体操を続ける。自分の手番でないときは、部屋の隅へ行って深く膝の屈伸等を行った。逆立ちして観衆を驚かせることもあった。こういう奇行をしつつも、ニムツォヴィッチはこの時期に立派な成績を残した。

 ポーランド人グランドマスター、アキバ・ルービンシュタイン(Akiba Rubinstein, 1882-1961)は、第一次世界大戦前における世界選手権の代表的挑戦者の一人だった。しかし、戦後は徐々に退き、ついには誰かに追われる被害妄想を抱くようになって引退してしまう。見知らぬ者が部屋に入ってきて走り去り、窓から飛び出して行くこともあったという。1932年以降は、すべてのチェス活動から退き、社会的接触も断った。

 これらのケースに見られる精神病の症状は、偏執病、誇大妄想、露出症(社会的現実感覚の喪失)である。明白な同性愛や、心因性うつ病、自殺のケースは見られない。退行は通常さほど深刻ではなく、入院期間は短いか必要としない。

 これらの症状は、本書の理論的分析によって説明できる。偏執病は攻撃の恐怖からの退行表現、誇大妄想は自己愛の原初的段階であり、露出症、特に自己露出は、身体的接触のタブーに我慢できず、チェス盤上にある象徴ではなく自身のリアルなペニスを見せることで孤独を切り抜けようとする衝動的試みである。深刻なうつ病や自殺にまで及ばないのは、チェスが攻撃のはけ口になっていることで説明が付く。自我の構造は明白な同性愛を許さない。自我は、最悪の退行を回避するだけの強さを保っている。


 ニムツォヴィッチがアクロバットでも観衆を沸かせていたとは知らなかった(笑。次回は、第5章「要約:チェスの理論」。

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2007年06月29日

ファイン『チェス棋士の心理学』4 チェス棋士の精神病 その1

4 チェス棋士の精神病

 本章では、今までに伝えられて興味を引くチェス棋士の精神病の多くのケースを振り返り、それらが、通常は抑圧されている葛藤を明らかにするかどうかを検討しよう。

 モーフィーのケースは考察した。シュタイニッツの無害な妄想についてもすでに触れた。

 何年も前に私は、自身が名人の息子でもあるチェスプレーヤーが早期に発狂するのを見たことがある。彼は22歳の職業画家志望だったが、家族は絵を描くことに強く反対し、自活を強要していた。私が会った1週間は、ずっと猫の顔ばかり描いていた。

 そういういざこざの間に、彼は商船の海員として旅に出ることを決意する。そして、帰還した土曜日に友人とレストランへ行った。彼は突然友人の手をつかんで言う。「私は神だ」。この感覚が翌日まで続き、その後は、もっぱらチェスに関する深刻な不安感覚とといくつかの妄想的な考えに取って代わられた。数日後に(1947年のこと)彼は以下の話をした。

 「アメリカとロシアは戦争に向かっています。ロシアのほんとうの支配者は、スターリンではなくボトビニクです。ボトビニクは技師で私の兄も技師です(彼には実際に技師で8歳年長の兄がいた。−著者)。私はボトビニクを倒しにロシアへ行きます。そうして、アメリカのために世界を征服するのです。私は、父の黒番定跡を完成させました。この定跡を黒で指すかぎり、ボトビニクは私に勝てません。白番では、私は難なく勝てるでしょう」

 チェスに関するこの妄想のメカニズムはとても分かりやすい。自分を神とする妄想としてまず幼稚な全能主義が現れ、それがチェス盤上へと移行する。チェスは、幼稚な欲望を満足させるための道具にされたのである。ボトビニクは、チェスマスターと技師の両面で、「父−兄」葛藤の対象には打って付けだった。ボトビニクを倒すことは、「父−兄」というライバルの殺人を意味する。彼が描き続けた猫の顔は、おそらく母親の象徴だろう。

 この若者は、独特の方法で駒から性的満足を得てもいる。「キングとクイーンが盤上で並んでいられるのは、2つのビショップ(僧正)がその両脇にいて二人の婚姻を公式に認可しているからに過ぎない」と彼は言う。しかし、その公式認可があっても、キングとクイーンは互いに寄り添っているわけにはいかず、序盤からできるだけ早期に離れねばならない。

 この強烈な発病後、若者は帰郷し、しばらくは体調を維持した。


 この若者の父親が気になるが、an expertとしか書かれていないので名のある人ではないのだろう。チェスで食っているレベルなら息子に画家になるなとは言いづらいはずだ(笑。次回は後半、トーレ、ニムツォヴィッチ、ルービンシュタイン登場。

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2007年06月21日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン まとめ2

 理論的分析が示したこれら4人の極端なまでに露呈された攻撃性と自己愛の人格特性は、対局によって容易にもたらされたものだろう。その根底では、4人ともが自らを全能だと空想していた。ある程度、自らをチェス盤上のキングと文字通り同一視していたのである。シュタイニッツは、ラスカーに敗北してからさらなる全能空想状態のために退行した。他の3人は、連勝街道の後で退行が起きている。

 4人とも、自らの業績を成し遂げるためには懸命な努力を必要とした。この壮大な野心は、単なる白昼夢ごときによっては達成され得ない。彼らの成功は、長期に渡る慎重な準備期間があって初めて実現したのである。このためには強靱な自我が必要とされるので、再び理論的分析が適合する。4人の中でシュタイニッツとカパブランカは、慣例基準から考えてまだまともな部類に思われる。さらなる洗練した分析によらねば、彼らを悩ませた精神的葛藤を明らかにはできないだろう。

 4人とも、あまり使う気がなかったチェス以外の才能にも恵まれた。特に顕著なのは語学の才能である。アリョーヒン、カパブランカ、モーフィーは、皆流ちょうに数か国語を話し、シュタイニッツは、プラハ生まれにもかかわらず英詩に精通した。

 彼らの人生でチェスが果たした役割は極めて明らかである。チェスは、彼らの全能空想を満足させるための媒体(vehicle)の役割を果たした。時が経つにつれ、元々自我の支配下にあったこの空想は、徐々に本能に支配されるようになり、人格の大部分を満たすようになったのである。

 もう一つのグループであるノンヒーロー組は、ほぼすべての点で全く逆の傾向を示す。彼らには、神話が−作ろうとすれば簡単にできただろうに−生まれなかった。スタントンとアンデルセンは、世界チャンピオンの称号を主張できたが、他の業績に満足していたためにそうしなかった。ラスカーの存命中に、彼への批評でお決まりだったのは、ラスカーの勝利は運が良かったからとか、対戦相手の目にタバコの煙を吹きかけたからというものだった。ラスカーは、こういうおとぎ話をわざわざ相手にしなかった。

 アンデルセンを除くノンヒーロー組は、チェス以外の分野でも名声に値する業績を残した。ラスカー、エイベ、ボトビニクは、アメリカの大学教授と同等の地位まで上り詰めたし、スタントンの文学的名声はすでに言及した。

 ノンヒーロー組にとって−またヒーロー組と対照的に−チェスは、彼らが様々な度合いで能力を発揮し合う知的活動の一つに過ぎない。表面的な見方を越えられれば、スタントンとラスカーの中で、チェスが−とりわけ攻撃性の−本能的はけ口になっていることを理解できるだろう。それは他の知的活動領域では見られないことである。

 第三の疑問、人格と棋風の間にある関連についてだが、あらゆるケースで人生経験と盤上行為の間にはある種明白な関連性が見られうる。しかし、その関連性を直ちに定式に還元することはできない。ある棋士にとってチェスの棋風は人格の直接的表現(攻撃的人格者の攻撃的棋風)でも、他のある棋士にとっては全く逆(攻撃的人格者の防御的棋風)の場合もあるからである。それ以外のはるかに複雑な関連性を持った棋士もいる。


 今回で長い第3章は終わり。第4章はおそらく2回分になるが、世界チャンピオン以外の棋士の精神病との関連に触れる。

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2007年06月16日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン まとめ1

 これで、本章の最初で提起した3つの疑問に答えられるようになったと思われる。最初の2つ、すべてのチェス棋士に共通して核となるような人格型が存在するか、特定の個人の人生においてチェスをすることがどのような役割を果たしているかを、まとめて考察しよう。

 チャンピオンたちの本職には、類似点と相違点が見られる。アンデルセンとラスカーはエイベと同じく数学者で、ボトビニクは技師である。カパブランカは技師になろうと勉強したが、チェスに熱中してあきらめた。したがって、半数ほどが理数系(mathematical-scientific)分野の出身者ということになる。これは、現代のトップ棋士40人からデータを集めて作成したデ・フロートの表に極めて一致する。

 しかし、チェスマスターたちは他にも様々な職業を持っている。半数が理数系分野でも、残りの半数はおそらくそうではない。ルイ・ロペス(Ruy Lopez)は聖職者だったし、フィリドール(Philidor)は音楽家、デシャペル(Deschapelles)は兵士、ルイ(Lewis)、マクドネル(M'Donnell)、聖アマン(Saint-Amant)は実業家、コリッシュ(Kolisch)は銀行家、ツカートルト(Zukertort)とタラッシュは内科医、バックル(Buckle)は歴史家、タルタコーワ(Tartakower)は詩人だった。若きロシア人マスターのタイマノフ(Taimanov)はコンサート・ピアニストである。ハルモニスト(Harmonist)というマスターはウィーンのオペラハウスのダンサーだった。インドのある領地の農奴スルタン・カーン(Sultan Khan)はほとんど読み書きもできなかった。彼はシュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)の中編小説『チェス(The Royal Game)』(39)でサヴァン症候群(idiot savant)風に描かれているチェス・チャンピオンに酷似している。

 チャンピオンの人格構造は、2組に分けると際立った類似点が見えてくる。第1組は、ほぼチェスだけに没頭したモーフィー、シュタイニッツ、カパブランカ、アリョーヒンである。便宜上このグループをヒーロー組と呼ぼう。チェス以外の関心事も追い求めた残りのチャンピオンは、ノンヒーロー組ということになる。

 ヒーロー組には以下の称号が与えられてきた。それぞれのチャンピオンに関する神話が形成されたからである。モーフィーは「史上最高のチェス棋士」、シュタイニッツは「現代チェスの父」としてもてはやされている。カパブランカは「チェスマシン」として有名になり、チェスを極めたと公にきっぱり宣言した。アリョーヒンは「史上最高の攻撃的棋士」と言われるようになった。

 言うまでもないが、これらの誇張表現は、チェスプレーヤーが崇拝できるヒーローの必要性から生まれた。しかし、チャンピオン自らも崇拝者の術中にはまり、周囲で増大する偶像崇拝者たちから、ある種深遠な無意識の満足感を得たのである。モーフィーのチェス引退でさえ単純に説明できる。おそらく、彼は復帰すれば無敵神話が崩壊することを分かっていたのだろう。

 この4人には、かなりの感情的混乱が見られる。当然ながら、モーフィーの病気は最も深刻だったので、誰よりも早くチェスに見切りを付けた。シュタイニッツとアリョーヒンは、晩年に向かうにつれ罪なき誇大妄想思想に捕らわれた。カパブランカは、極度な緊張に悩まされた。注12

 注12:モーフィー、アリョーヒン、カパブランカは、皆45歳から55歳の間に突然の発作で亡くなっている。これは、彼らがとてつもない緊張下で過ごしていたことと関連がありそうだ。



 スルタン・カーンについては『完全チェス読本』で読んだはずなのに、手元にないから検索したらmaroさんちで見つかった。オスマン帝国の皇帝のような名前なのに奴隷だった? ヒーロー組とノンヒーロー組は、キャリア組とノンキャリア組みたい(笑。

 ↓全然関係ないけど、おもしろい辞書を見つけた。
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2007年06月08日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン ボトビニク

 9) ミハイル・ボトビニク(1911-1995:執筆時存命)は、チェスが公式に創造的芸術と位置付けられた一文化圏(ソ連)から初めて誕生した世界チャンピオンである。彼は1911年にセントペテルスブルクで生まれた。13歳でルールを学ぶやいなや、目覚ましい才能を示す。偉大な経歴は1925年に始まった。同時対局でカパブランカを破ったのである。1927年には国内での最初の偉業を成し遂げた。16歳でソ連選手権の決勝まで進み、マコゴノフ(Makogonov)と5位タイで終了し、マスターの称号を獲得したのである。

 優れたチェスの能力があるにもかかわらず、ボトビニクは学究的な進路に留まり、電気技師になった。この職業における業績も注目に値する。

 1931年、20歳のときに、ボトビニクは初めてソ連選手権で優勝した。そしてもう一つの偉業が続く。アリョーヒン亡き後、新世界チャンピオンを決めるために1948年に5人で行われた大会で優勝したのである。以来2度タイトルを維持しているが、2回とも挑戦者を撃破するのではなく同ポイントでの防衛だった。

 ボトビニクは結婚して1人の子供をもうけた。大学で電気工学を実験し、教えている。ソビエトではチェスが尊重されているので、時と場所を選ばず好きなときにたやすくチェスができる。彼は、レーニンの命による勲章を授与されてきた。

 ロシア人は、長年に渡って、自分たちの社会の芸術家は他の国々でよく見られるような苦悩のプリマドンナになる必要はなく、社会的に正常な生活が送れることを証明しようと、確固たる努力を続けてきた。我々の知るかぎり、ボトビニクの生活もこのパターンに従ってきた。

 このような姿勢の文化圏では、チェスが個々人の精神的秩序(psychic economy)の中で果たす役割も違ったものになるに違いない。そこで、何ゆえチェスがロシアの国民的スポーツになったかを問うことが妥当と思われる。そうすれば、個々のロシア国民がチェスに没頭するようになった理由を深く追求する必要もなくなるからである。ボトビニクはただ単に周りの環境に順応しているだけなので、残る問題は生得の才能となる。

 ボトビニクの棋風は、現代の全ロシア人マスターを代表するものである。数年前に、彼は『ソビエト流派のチェス(Soviet school in chess)』(3)という記事でこの棋風に関して述べている。その最大の特徴は、いかなる状況が生じても動的に対処できることであり、序盤や終盤、攻撃や防御を重視しすぎる静的な「資本主義者」と対照を成す。こういう流儀は、孤立したソビエトの政治的感情や不測の事態にも対処する必要性が、直ちにチェス盤上に反映したものと考えられる。

 しかし、ボトビニクの記事には、他国人に強烈に映る他の特徴が描かれていない。彼の棋風(と他のロシア人のそれ)が、直接的攻撃よりも、反撃戦略(counter-offensive strategy)に基づいていることである。これも、個人の主導権が最小限に抑えられる社会構造の反映といえるだろう。

 ボトビニクが触れていない棋風のもう一つの特徴は、静的な防御的局面での対処の甘さである。これは、シュタイニッツやラスカーのようなマスターが秀でていた。この点でも、「生きるか死ぬか」という二者択一の政治的現実がチェス盤に反映したと見なせる。

 チェスに反映したボトビニクの他のマスターと異なる人格側面がまだあると思われるかもしれないが、それを明確にするだけの十分な情報がない。


 前回の予告で、次回「から」ボトビニク、と書いたが、これだけだった(汗。あと2回分総括が続いてこの「世界チャンピオン」の長い章は終わり。残りはもう少しである。
 「苦悩するプリマドンナ」のたとえは、マリア・カラスに代表されるように、私生活を持ち崩したケースを指しているのだろうが、そんな歌手ばかりじゃないはず。

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2007年05月31日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン エイベ

 8) マックス・エイベ(1901-1981:執筆時存命)は、1901年にオランダのアムステルダム近郊で生まれた。チェスの経歴は早期に始まる。10歳でアムステルダムの1日大会で優勝したが、家族はその神童性を伸ばそうとせず、平穏に学業を全うした。1921年、20歳のときオランダ選手権で優勝する。それほどのレベルに達していたにもかかわらず、1926年に数学の博士号を取得するまではチェスに真剣には取り組まなかった。彼の職業は常に数学教師だったのである。

 エイベが最初に国際的な成功を収めたのは、惜しい敗北だった。1926年にアリョーヒンとのマッチに41/2-51/2で破れたときである。それでも、翌年の世界選手権でのカパブランカよりははるかに善戦したといえる。大会での成績が徐々に向上した後、1935年の世界選手権でアリョーヒンを破った。そして、2年後にリターンマッチでタイトルを失う。

 第二次大戦後、エイベは学校を5年間休職してチェスに没頭する。世界中を旅行して多くの大会に参加したが、その結果はすでに戦前の水準には及ばなかった。

 一個人としても、エイベは昔のチャンピオンたちとひじょうに対照的である。彼は結婚し、3人の子供をもうけ、模範的で、一般的平均と比べてもかなり幸福な人生を過ごしてきた。社会にうまく順応した一般人を超えるような根深い精神的葛藤や心配性の兆しは見られない。

 エイベは職業教師であり、チェス界に対する教師でもあり続けている。過去30年間に渡り、多数の本を執筆し、著名な新聞や雑誌のコラムを編集してきた。

 このような男にとってチェスはどういう役割を果たすのだろうか? 人生の早い時期にチェスと数学という2つの選択肢があった。具体的な違いは、一方は競技でもう一方はそうではないことにある。チェスでは攻撃が知性化され、うまく昇華される。同時に、攻撃は常識的な範囲内に抑えられる。勝利が誇大妄想的征服欲を喚起するわけでもなく、敗北が絶滅に向かうわけでもない。

 エイベの棋風は、用意周到な準備と論理に重点が置かれている。彼は定跡に関する大家であり、序盤を逸脱して指すことはほとんどありえない。逆に、序盤の新手にはひどく驚き、ろうばいする−明らかにそのすべてが対戦相手の知るところとなる。

 学校の先生としての規則正しい生活が、彼の人格に典型的な用意周到さの反映であることは言うまでもない。そのような生活において場違いな戦術的不意打ちは、チェス盤上においても戦術的不意討ちとなるのである。


 今回のみのエイベは常識人だからかおもしろい逸話はないらしい。次回からボトビニク。

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2007年05月24日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン アリョーヒンその2

 1935年、アリョーヒンは精神異常が災いし、オランダ人、マックス・エイベ博士に世界チャンピオンを奪われる。1937年に奪還したとはいえ、当時の若い世代の多くがアリョーヒンと同等かそれ以上のレベルになっていたことは明らかである。

 第二次大戦中、アリョーヒンはナチスの協力者になった。『アーリアン(Aryan: 非ユダヤ系白人)』に執筆した一連の記事で、彼はユダヤ人がチェスをできないことを「証明」し、ゲームの純粋さを汚していると述べている。棋士仲間にはユダヤ人が多かったので、戦後アリョーヒンは閉め出された。ボトビニクは例外で、1946年にマッチを挑み、ロンドンでの開催が予定される。しかし、マッチの直前にアリョーヒンはリスボンで心臓発作のために亡くなってしまう。

 戦時中のアリョーヒンはフランス、ビシーのサナトリウムにしばらく隔離されていたと伝えられているが、その詳細を得ることはできなかった。

 アリョーヒンの女性関係は極めて複雑である。彼は5回結婚している。最後の2人はかなり年上で、年齢差は30歳と20歳である。彼は若い頃に性的不能になったと言われており、最後の妻に対してはあからさまにサディスティックだった。

 後年のアリョーヒンには他の奇行も見られる。重度の酒びたりだった。他人を盤上のポーンのごとく扱う。メキシコで40面の公開同時対局の予定が組まれていたとき、政治的高官が遅れてやってきて41面に追加された。アリョーヒンはその盤をわざとひっくり返したのである。泥酔して公開対局に現れたときには床に小便をし始め、対局は中止となった。1935年のエイベとのマッチのときは、対局前に酔っぱらって草むらで寝そべっているところを発見された。

 カパブランカと違い、アリョーヒンはチェスを愛した。頻繁に対局し、対局しないときは研究に長時間を費やした。彼は、旅行中でも日に4時間はチェス盤に向かうと語っている。

 アリョーヒンの場合にも、男根自己愛的要素が強く見て取れる。彼にとってのチェスは、基本的に攻撃兵器、他の方法では勝てないライバルを打ち負かす手段だった。カパブランカと比べると、2人のわずかな違いが興味を引く。アリョーヒンは母親にチェスを教わり、カパブランカは父親からである。したがって、アリョーヒンはチェスを母親に勝つためのものとして続けた(母親ほどの年の最後の妻とベッドでチェスを指したことまで語っている)。カパブランカは母親から距離を置くものとしてチェスを続けたので、飽きてしまったのである。

 アリョーヒンの棋風は分かりやすい。彼は驚異的な攻撃の名人だった。自身も史上最高の攻撃的棋士と自称することを好んだ。この攻撃精神が表すものは、父親へのサディスティックな衝動の昇華に他ならない。男をいったん見下すと、打ちのめそうとした。カパブランカに対してチェス盤上で象徴的に行ったことを実生活でも試みたのである。

 同時に、とりわけ晩年まで、アリョーヒンは防御技術に顕著な弱点を持っていた。理由は心理的に明白である。彼は対戦相手に自身のサディスティックな衝動を投影したので、負わせようとしていた壊滅を自ら被ることを恐れたのである。


 アリョーヒンがレティを倒した有名なゲームでは、このおっさん何手先まで読んでるんだと驚嘆したものだが、酒飲みの小便垂れだったか(笑。しかし、すかしたカパよりこういう求道的な人の方が好き。真似するとドツボにはまるが(汗。
 次回はエイベ。

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2007年05月17日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン アリョーヒンその1

 7) アレクサンダー・アリョーヒン(1892-1946)は、チェス界のサディストだった。1892年にモスクワの富裕なロシア人家庭の御曹司として生まれた。早くから例外的にも母親からチェスを教えられ、すぐに熱中するようになったと言われている。学校の授業は、目隠しチェスをして時間をつぶした。急速に上達し、16歳ですでにマスターとなる。家が裕福なおかげでチェスにかなりの時間打ち込むことができた(父親はモンテカルロで2百万ルーブルをすったとの記録がある)。1914年のセントペテルスブルクでの自身初 参加となる国際大会では、ラスカー、カパブランカに次ぐ3位と健闘した。アリョーヒンとカパブランカの間には温かい友情が芽ばえたが、それは後年の確執と好対照をなすことになる。

 戦争と続く革命の間は、チェス活動の機会を失った。アリョーヒンは、共産党党員になったと思われていたのである。秘密情報を流した疑惑のために、チェカの監獄で2週間過ごしたこともあった。しかし、外国語に堪能だったおかげで外務省に職を得る。外国へ代表派遣されるためにこの地位を利用し、ドイツへ到着したときに逃亡した。1921年までにはソ連から亡命してプロのチェス棋士になり、それは生涯続くことになる。1929年にはソルボンヌ(旧パリ大学)で法学を修めたが、実践には至らなかった。

 第一次大戦後の時期には、アリョーヒンはラスカー、カパブランカに次ぐ第3位にランクされた。やがてラスカーが引退してカパブランカだけが残る。アリョーヒンの何年間もの努力が、このキューバ人を倒すために注がれた。カパブランカのゲームを研究し、猛勉強し、立派な本をいくつか執筆し、とうとう1927年に世界チャンピオンの座を奪い取ったのである。

 カパブランカを破ってしまうと、アリョーヒンの彼に対する態度は鋭く一変する。思いつくあらゆる方法を使ってリターンマッチを回避したのである。カパブランカが賞金を1万ドルに上げたときは、ドルの価値は変動するという理由から金で換算することを要求した。大会の報酬を大会事務局が対処できないほどの高額に引き上げることで、自分が参加する大会からカパブランカを閉め出した。二人の再戦は1936年の大会まで待たねばならないが、そのときアリョーヒンは世界タイトルを失っていたので、もう逃れる口実を作れなかったのである。

 アリョーヒンのカパブランカからの逃避は、明らかに神経症によるものと思われる。1928〜1934年なら、ほぼ疑いなくアリョーヒンが楽に勝てただろう。アリョーヒンはこの時期ずば抜けたレベルに達していたし、カパブランカはもう下り坂だったからである。アリョーヒンは異常なほど長期間、カパブランカの名前がいかなる形で言及されることすら忌み嫌っていた。1937年のイギリスのマーゲイトでの大会では、内相のジョン・サイモン卿が開会辞を述べた。その内容は特にどうというものでもなかったが、カパブランカの名前にたまたま触れてしまう。アリョーヒンは、即座に立ち上がってこれ見よがしに部屋を立ち去った。敵は完全に消し去らねばならず、名前ですら例外ではないのである。

 世界チャンピオン在位期間の初期、1927〜1934年頃がアリョーヒンの絶頂期だったと思われる。その後飲酒量が増え始め、棋力が衰え、誇大妄想の徴候を示し始める。1935年にワルシャワで国別対抗の国際大会が行われた。アリョーヒンは、市民権を得ていたフランスの一将として参加する。しかし、ポーランドとの国境を越えるときにパスポートを持っていなかった。役人に証明書の提示を求められて、彼は答えた。「私はアリョーヒン、チェスの世界チャンピオン。チェスという名の猫を飼っている。証明書は必要ない」。事態は、最高権威筋による解決を要した。


 一昨日(前回)の記事で、HPベース書評がほったらかしと書いたが、amazonインスタントストアの方も、原因不明のバグのせいで、今年'07年のamazon新刊分のレビュー訳表示が消えてしまった。仕方なく現在は一昨日の本が1冊表示されているのみである。
 しかし、ストアトップで現在表示されているSilman's Complete Endgame Course: From Beginner To Masterでは、私の('07年新刊として書いた)レビュー訳がちゃんと転用表示されている(こういう表示がHPではできない)から全くデータが消失したわけでもないようで…。
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2007年05月10日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン カパブランカその2

 カパブランカは、チェス以外のゲームや競技にもひじょうに通じていた。ブリッジの達人で、テニスにも堪能、コロンビア大学では野球チームの選手だった。何事においても勝つことが、明らかに人生の目的となっていたのである。精神分析用語では、彼は男根自己愛(phallic-narcissistic)人格に分類される。そういう男性によく見られるように、性生活の目的は無意識のうちに征服欲となり、ドン・ファンその人かと思わせるようになる。カパブランカは、肉体関係を持った時点でその女性には興味がなくなったのである。

 男性に対しては、傲慢無礼に振る舞った。この場合でも自己愛が顕著である。敗者としては哀れで悪名高かった。1913年にハバナでマーシャルに負けたときは、市長に観衆をすべて部屋の外へ出させてから投了した。

 世界チャンピオンになってからカパブランカがチェスに飽き足らなくなるまでには、あまり時間はかからないことが判明した。彼は、もう現行のチェスは指し尽くしたから、盤を拡張して新しい駒を付け加えようと提案する。彼は決して研究せず、決して非公式対局をせず、大会以外の場所では実際ほとんどチェスをしなかった。チェスをすでに征服したという幻想を抱いたために、チェスにこれ以上悩まされることが無意味になったのである。

 この幻想から無敵神話が生まれた。『私のチェス経歴(My Chess Career)』では、以下のように書いている(7)。

 一ゲームも負けないと思う境地にほぼ達したことが、生涯に何度かあった。そして敗れ ると、敗局が私を夢の国から地上へと引き戻す。

 決して打ちのめされることがない夢の国はなじみ深いもので、それは母親への回帰である。カパブランカは、口唇に関する執着が強かった。とりわけ料理を好み、行きつけの数軒のレストランに自分専用のメニューを用意させていたと聞かされても、意外ではない。絶え間ない不安と熱狂がおそらく高血圧の原因であ り、これは、幼児期に憧れの母親を発見できずに口唇期で固着(fixation: 精神が未発達の段階に留まること)した男性によく見られる症状でもある。

 チェスがカパブランカの人生で果たした役割は極めて明らかである。彼は勝とうと躍起になり、天性の才能によって勝つことができた。父親(ラスカー)を倒すことに成功してしまうと関心を失った。これは、自分が全能だという幼稚な空想を実現させようとしていたことを意味する。

 この幼稚な全能への退行は、ときおりゲームを台無しにした、素人でも防げるとてつもない悪手(例えば、1914年セントペテルスブルクでのタラッシュ戦、1927年のアリョーヒンと最初のマッチ、1929年カールズバッドでのヨーナー(Johner)戦)を説明することもできる。そのときどきで、彼は白昼夢にふけり(「一ゲームも負けないと思う境地にほぼ達した」)、単に現実の局面と距離を置いていたに違いない。

 カパブランカの棋風は、実利主義(materialistic)と言い表すのが最適である。1ポーン得か陣形的な優位を勝ち取ると、後は完璧なテクニックでそれを勝利に導く。12歳のときのコルゾ戦のような若い頃のゲームでも、このやり方に従っている。彼は、若い棋士のほとんどが経験する「いかなる犠牲もいとわないロマンチックな攻撃」時代を経なかったと思われる。

 実利主義の棋風は、男根自己愛傾向の流れを直接くむものである。何かに勝てばご褒美がもらえる。カパブランカは盤面の理解がずば抜けて早く、特に若い頃は同時代の棋士の誰よりも早指しだった。いったん優位に立ってしまえばもう考える必要がなく、歓楽の国へ隠遁できたのである。


 カパの棋風を表すmaterialisticの適訳が難しい。英語は物質主義から功利主義まで幅広いから便利だが、positional advantageまで含んでいるので日本語だと「駒得主義」ともできない。やや抽象的ながら「実利主義」としたが、ニュアンスとしては「反投機主義」かも(笑。
 次回からアリョーヒン。
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2007年04月24日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン ラスカーその3

 ラスカーの棋風は他のどのチャンピオンよりも定義しがたいので、固有の方法で行うことにする(アインシュタインが観察するように、ラスカーは特定できない)。2つの特徴が際立っている。戦術に長けていることと、明晰と秩序の追求である。

 戦術に長けていることが一人のチャンピオンだけに特有というと、奇妙に思えるかもしれない。すべてのチャンピオンがそうだと思うはずである。しかし、ラスカーの場合は、他のチャンピオンと違ってそれが棋風にまで高められていた。彼はいかなる独善的な観点も取らない。シュタイニッツは、しばしば勝つことより自分の理論を証明することに腐心した。カパブランカは単純化に躍起になり、アリョーヒンは攻撃にはやった。

 ラスカーは攻撃も防御もできた。たいてい防御を好んだが、序盤、中盤、終盤のすべてで一流だった。多才なチェス芸術家−実生活でも様々な分野で専門家たらんとする資質の持ち主だったのである。特定されるのを拒んだのは、チェス盤上では長所となった。徹底的な折衷主義(eclecticism)は、長期に渡って数多くの勝利をもたらしたからである。しかし、それは他の分野では不利に働いた。おそらくすべてのことが早期からチェス好きになるのに役立てばいいという願い。その選択は、同等に才能ある兄のそれとは対照的である。兄は、チェスを真剣に指すことをやめて医学へ邁進した。その兄にチェスを教わったらしいので、人格形成に兄弟間対立の強い影響があったことが十分推察される。

 ラスカーの棋風のもう一つの特徴は、明晰と秩序の追求である。最初の著書(2冊しか書かなかった)は『チェスの常識(Common Sense in Chess)』という(28)。哲学的著作『世界の理解(Das Begreifen der Welt)』の序文から以下に引用する。

 本書は万人向けに書かれている。予備知識は必要ない。しかし、ある種の読者層を意識して執筆した。本書は、今なお素直さ(simplicity)を失っていない教養ある読者に最も訴えるだろう。こだわりのある(complicated)読者に も受け入れられるなら、本書によって素直な気持ちを取りもどすことだろう。

 明晰さの追求は、ラスカーが性的衝動を否定するか「規制する」欲望と特に関連している。彼が結婚したとき、一気に夫、父、祖父になったと発言したことを思い起こそう。彼の名を冠した2つの定跡変化(ルイ・ロペスのエクスチェンジ・バリエーションと、クイーンズ・ギャンビット・ディクラインドのラスカー・ディフェンス)が、どちらも異例の早期にクイーンを交換することは、おそらく偶然の一致ではないだろう。すなわち、局面を明晰にするためにラスカーは女性を取り除いたのだ。


 スタントンの最後でも出てきたeclecticismを再考すると、やはり辞書的訳語の「折衷主義」の方が分かりやすいと判断し、スタントンのときの「不偏不党」もHPでは「折衷主義」に統一することにした。全文の統一には最後まで読む必要があるが、こういう連載訳では仕方ない(汗。
 著者引用部分のsimplicityとcomplicatedは単純さと複雑さでは何のことやら分からないので意訳したが、「素直」の対義語で complicatedに合致する言葉が難しい。知識や先入観でがんじがらめになっている読者のことだろう。
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2007年04月17日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン ラスカーその2

 ラスカーの人格は、先達シュタイニッツとは正反対である。思いやりがあって礼儀正しく、表だった敵意のたぐいは全く感じられなかった。彼を知る者は、いかなる論争も避け、誰に対しても冷酷な言葉を発さないラスカーに感銘を受けた。ラスカーは、自身の理性的な気質に誇りを持っていたのである。

 1930年代の初めの数年間、ラスカーはアインシュタインと親交があった。アインシュタインは、後にラスカーの伝記に序文を寄せている。中でもアインシュタインは、二人が相対性理論に関して長々と議論したと語っている。ラスカーは、真空中での光の速度が無限とは証明されていないと珍しく反論した。この仮定が相対性理論の土台となっているので、アインシュタインは、この仮定が証明か反証されるまで相対性理論を正当化できなくなる。アインシュタインは、特に当面確実な証明方法がないからといっていつまでも待てないと応酬し、加えて、そのチェス棋士気質のせいで、いかに不本意な結論への道筋に対しても忍耐強いとラスカーを形容した。この気質においては、何かが定義されることが要求されない。結局、チェスはゲームに過ぎないからである。この点で、両面価値が抑圧されていることはラスカーにとって好都合だった。そうでなければ、彼の一流の頭脳は物理学になにがしかの貢献をしたことだろう。

 人生におけるこの切り離された知性の領域であるチェス活動は、どういう役割を果たしたのだろう? ラスカーに受け入れられる形としてもっぱら生み出されたのは本能的満足感だが、つまりそれは知性だけだった。ここかしこでチェスから得られるつかの間の喜びを与えてくれるラスカーだが、その喜びは意識的に否定されている。かつてタラッシュはこう述べた。「ラスカーはほとばしるような情熱に欠けている」。そして、1914年セント・ペテルスブルクでのカパブランカに対する名高い勝利に関して以下のように記している。

 観衆は、固唾を飲んで最後の数手を見守った。黒陣の崩壊はずぶの素人にも明らかである。ついにカパブランカが自分のキングを倒した。何百人の観衆から、私がチェス棋士として生涯味わったことのない喝采が湧き起こった。それは、劇場で全観衆から自然にとどろく雷鳴のようなものである。ただラスカーだけは、それをほとんど気にも留めていなかった。注11
 注11:イタリック著者。R. F.

 言い換えると、ときにはチェスで本能的な喜びを感じることができた点においてラスカーは偉大だったのである。したがって、彼の対局は減っていき、さらには9年間も対局せず、チェス界で得られる優位に正当な価値を見いだせなくなった。とりわけ、彼の攻撃性は増大する反動形成(reaction-formation:無意識的衝動を自我によって承認されるように反対のものに変える自己防御作用)に屈し始める。多くのチェス以外の企画も完成できなくなった。そうすることが攻撃的行動の遂行を意味するからである。マゾヒスティックな傾向が現れて、攻撃性と混ざり合う。第一次世界大戦中には、ドイツが戦争に勝たねば文明が滅びることを論証する本を書いた。1921年のカパブランカ戦での早過ぎる投了は、マゾヒスティックな決断だったに違いない。ラスカーは「老い」過ぎたと感じていたが、それでも1935年に至るまでに多くの若手を破り続けた。1925年には、チェス界で「不当に扱われていると感じる」。ラスカーの最後の病気(前立腺病)を診断した医者は、すぐに治療を受けていたらもう何年か延命できただろうと言った。知性が発達しすぎた結果、ラスカーは肉体を否定したのである。


 「ラスカーは、真空中での光の速度が無限とは証明されていないと珍しく反論した」は、原文でLasker offered the unusual objection that it had not been demonstrated that the speed of light in a vacuum is infinite...だが、相対性理論では「光の速度が観察者に寄らず一定」だから、infiniteはdefiniteの誤りではなかろうか。
 今回は訳の流れがうまくいかなかったが、ラスカーに関してはファイン博士の解釈(こじつけ)も今一つさえないということにしておこう(お。
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2007年04月10日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン ラスカーその1

 5) エマヌエル・ラスカー(1868-1941)は、さらにまた違った人格を表している。彼は1868年にベルリンヘン(Berlinchen:現ポーランドのバルリネクBarlinek)で生まれた。駒の動かし方は12歳のときに兄ベルトホルトから学んだと言われている。兄も独力で一流のマスターになったが、職業は医学に邁進した。エマヌエルは、15歳まではチェスを真剣にはやらなかった。1889年にブレスラウの重要な大会で優勝し、ドイツの慣例に従ってマスターの称号を得る。1892年にはイギリスを長期訪問して数多の成功を収めた後、シュタイニッツを破るために1894年にアメリカへ渡った。世界選手権を制した後も、セント・ペテルスブルク 1895-96、ニュルンベルク 1896、ロンドン 1899、パリ 1900等の大会で圧勝する。当時、他のマスターたちより頭一つ抜きん出ていたことは明白である。

 その後しばらく競技会からは身を退き、1900年にエアランゲンで数学の博士号を取得する。数学を教えることもプロのチェス棋士でいることもできたが、自身を哲学者と見なし、そのときどきで興味を引かれるものに何でも没頭することを好んだ。その主張とは裏腹に、時折のチェスは指し続け、後年まで最強棋士に留まる。1924年、56歳のときにもなお、カパブランカを含む一流ライバルたちを抑えてニューヨーク大会で優勝した。

 1908年にはドイツ人作家と結婚し、40歳にして一度に夫、父、祖父となった。妻が7歳年長で、すでに祖母だったからである。

 1921年にラスカーはカパブランカとの世界選手権マッチに敗れる。ラスカーは実際のところあまり乗り気ではなく、1907年の著作『闘争(Kampf)』で唱道したように抵抗するよりも時期尚早に投了した。数年後、チェスの世界組織は創造的芸術家たらんとするいかなるチェスマスターにも非友好的と公言し、公式に引退を表明する。9年間チェスから離れていたが、出現したナチ政権に私財を没収されたために、1934年に財政的な窮乏により復帰を余儀なくされた。1935年のモスクワでは67歳にして3位という未だ健在ぶりを示し、その偉業は「生ける奇跡(biological miracle)」と喝采される。モスクワに数年留まった後、1937年に帰郷し、1941年に没した。

 ラスカーは基本的に独立独歩精神の持ち主で、生涯のほとんどはフリー契約による知的活動に費やされた。興味は多種多様である。数学を教え、哲学書を執筆し、第一次世界大戦で使われた戦車の一種を発明し、ゲームと盤上競技に関する百科事典と、晩年には『未来の共同体』(30)という社会改革に関する連作本執筆まで企画した。
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2007年04月04日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン シュタイニッツその3

 チェス界に君臨する間、シュタイニッツは自分の心配事を十分に制御することができた。しかし、1894年にチャンピオンをラスカーに奪われ、1896年のモスクワでのリターンマッチにも敗れたとき、精神病の軽い発作に見舞われる。この敗北後はユダヤ人のチェスに関する本の執筆をできるだけ速く進めようとし、そのために英語とドイツ語の両方に堪能な若いロシア人秘書を雇った。コードも受信機もなく電話できるという妄想が膨らみ、秘書は見えない電話がかかってくるのを待ちわびるシュタイニッツをたびたび目にする。窓ぎわへ行って話し、歌い、返事を待つこともあった。秘書がアメリカ人カウンセラーに相談すると、モロソー(Morossow)・サナトリウムへの入院を勧められる。1897年2月11日のことだった。1897年3月6日、シュタイニッツはウィーンにいる幼なじみの内科医に手紙を書いている。「どの狂人とも同じで、医者たちは私よりも気が狂っていると思う」。彼は精神科医に助言する正気も持ち合わせていた。「ユダヤ人のように私を扱い、追放するがよい」

 シュタイニッツはそのとき60歳だった。無線電話の妄想は無害の奇行に終わる。数週間後には解放されて4年以上もチェスの大会に復帰したからである。1900年、死の直前に再び様々な妄想が現れる。電流を発してチェスの駒を思いのままに動かすことができると考えた。神と電気的に交信して1ポーンと先手のハンデを与えることができたと主張したとも伝えられている。それからしばらく入院し、異常なしとして退院し、数週間後に亡くなった。

 シュタイニッツが何か器質的にもうろくしたにせよしなかったにせよ、彼の老年期の妄想はラスカーに敗北したことを埋め合わせるためだったと解釈できる。攻撃性がもはや功を奏さなくなると、取って代わった退行が以前の誇大妄想レベルにまで進行したのである。

 シュタイニッツの人格と棋風の関連は、ひじょうに単純かつ直接的である。青年期の彼は大胆なギャンビット使いで、激しい攻撃と華やかなコンビネーションで勝利していた。皮肉なことに、この時期のゲームには、モーフィーが指しそうだが決して指さなかったような特徴が見られる。明らかにシュタイニッツは、力ずくで父親を引きずり下ろそうとしていた。自身がチャンピオン、つまり父親になると、息子たちからの攻撃を退けねばならない。それに従い、棋風は根本的に変化し、不屈の防御的棋士になった。といっても、攻撃を極限まで高めたのと同様に防御を極めたのである。とてつもなく不均衡な局面に突入し、シュタイニッツにしかできない芸当でその危機から脱出する。黒番でお気に入りのある定跡では、e5マスのポーンをいかなる攻撃からも守り抜く。それは、実生活で他人に 耳を貸さずに自分の考え方を頑固に貫くこととちょうど同じである。

 防御性はしばしば挑発的な性格を帯びることがあるが、シュタイニッツは極端なまでに挑発的になりえた。彼に何度も苦汁を飲まされていたイギリスのマスター、ブラックバーンは、かつて怒り心頭に発し、宿敵シュタイニッツを窓越しに殴ったという。ブラックバーンはチェス以外に酒をこよなく愛していたから、おそらくこのときも酔っぱらっていたのだろう。しかし、シュタイニッツが頭を叩かれるような目に遭うのも無理はないと思われる。

 シュタイニッツのケースでは、実生活上の態度がそのままチェス盤上に引き継がれる様を見た。しばしば生じる型とはいえ、決して不変の原則と見なすことはできない。


 e5ポーンを守る定跡は、ルイ・ロペスのシュタイニッツ・ディフェンスのことだろう。最近、前金までいただく仕事の依頼があるので本ブログの更新が危うくなってきた(汗。とにかく、次回からラスカー。
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2007年03月27日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン シュタイニッツその2

 チェス棋士になる前から、シュタイニッツが議論のための議論を好んでいたことは極めて明らかである。バッハマンはヨゼフ・ポパーの自叙伝からも以下の逸話を引用している(1)。フロイトも同じくこのポパー=リュンコイスに言及している。

 私の友人にチェスの名人ヴィルヘルム・シュタイニッツがいたが、彼は生涯で出会った最高の天才でもある。その頃すでに、このとりわけ感受性豊かな若者はモーツァルトの音楽の熱狂的な崇拝者だった。つまりは私と同意見だったのだが、突然賞賛し始めた−ワーグナーを。毎晩のように我々は、ワーグナーの音楽がひじょうに美しく、メロディーがいいからモーツァルトの音楽に比肩しうるかどうかについて何時間も議論した。私の懸命な努力も空しく、ワーグナーの音楽はとりわけ美しく中でも「ローエングリン」は傑作だからモーツァルトの音楽の方が劣っているという意見にも、シュタイニッツは動じなかった。

 シュタイニッツにおいても、知的攻撃性が他のどの資質よりも抜きん出ている。チェス盤上で戦い、チェスのコラムで戦い、友人と果てしなく論争した。論敵たちにシュタイニッツが反ユダヤ主義者と思われていた(実証する要素もある)ので、あるときユダヤ人のチェスに関する本を書き始めた。本人が言うには、その疑いに反論するためだった。

 当然ながら、これほどの攻撃性には多大な心配性が付きものである。シュタイニッツの場合も実際にあてはまる。彼は一種の男性ヒステリーと見なせる。30年間頻発する「神経性」発作を患い、主な症状は過敏症、神経質、不眠症だった。これらの症状を克服するために、彼は「クナイプ」式水浴療法に頼った。これは冷水浴を利用するらしい水治療法の一種で、当時はニューヨークにクナイプ協会(Kneip Society)があったほどで、この治療法には多くの信者がいた。

 チェスの王者でいる満足感によって、シュタイニッツは徐々に救世主コンプレックスなるものに陥っていった。彼はほぼ文字通りに、敗北して途方に暮れたチェス棋士から救済を懇願されているように感じていた。これに関連する初期の逸話がある。ウィーンのあるチェスクラブで、シュタイニッツはエピシュタインという名の男とよく指していた。彼は、当時のウィーン証券取引所での大立者である。二人の間でひとたび論争が起こると、エピシュタインは言う。「そんなことがよく言えるね? 私が誰だか知らないのかね?」 シュタイニッツが答える。「もちろん。君は証券取引所のエピシュタインだが、ここではがエピシュタインだ」注10

 注10:同様な話がレシェフスキーによって語られている。彼は、第一次世界大戦でドイツ軍に侵攻されたときにポーランドですでに神童として名をはせていた。ドイツ軍の司令官は、この天才(当時7歳くらい)を呼び寄せて自分と対局しろと命令した。レシェフスキーはひるまず勝利し、司令官にイディッシュ語で 言った。「あなたがするのは戦争、僕がするのはチェスです」



 モーツァルトとワーグナーの話はつじつまが合わない気もするが、ヨゼフ・ポパー=リュンコイスについてもあまり調べが付かず、これ以上分からなかった。シュタイニッツは口先だけポパーのワーグナーひいきに合わせたという意味だろうか(汗。
 最後のシュタイニッツと注のレシェフスキーの皮肉もそのまま日本語にするとピンと来ないかもしれないが、説明台詞にするのもまずいので何とかニュアンスをくみ取ってください(汗。
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2007年03月19日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン シュタイニッツその1

 4) ヴィルヘルム・シュタイニッツ(1836-1900)は、1836年にプラハで生まれ、故郷では子供の頃から最強の棋士として知られた。学校では数学に秀でる。1858年には、ウィーンの高等工業学校(Polytechnische Anstalt)に入学した。しかし、ほどなくして正規の学校教育を諦め、残りの人生をチェスに捧げることになる。1862年にイングランドへ移住し(プラハを離れた理由は不明)、20年間ほど自活した。強敵が増えてくると1882年にアメリカへ移住し、何度か離れたものの亡くなるまでそこに留まった。
 シュタイニッツにとって、チェスは人生の情熱すべてをかけるものだった。モーフィーと違い、シュタイニッツはチェスをゲーム以上のものと見なし、チェスでの成功を誇りにした。シュタイニッツの伝記作家バッハマンは、1896年に自分宛に書かれたシュタイニッツの手紙を以下のように引用している。彼の人物像が見て取れる(1)。

 チェスは臆病者のものではありません。チェスは、過去の指し手の模倣に執着するのではなく、ゲームの奥深くまで独自に探求しようとする一人前の人間のものです。たしかに私は気難しくて論争好きですが、徹底的な分析によってしか明らかにできない局面に関して表面的なコメントばかり聞かされれば、論争好きにならないはずがありません。混乱から逃げるためだけに昔ながらの方法に寄りかかり固執している様を見れば、それを憂えないわけもないでしょう。もちろんチェスは難しい。実践と真面目な反省が必要で、それには勤勉に研究するしかありません。妥協をしない論争でしかその目標に到達できないのです。ところが、ひじょうに残念なことに、論争は真実へ向かうどころかその妨げになっているように見えます。しかし、真実へ向かう道から私を逸れさせることは誰にもできないでしょう。

 シュタイニッツの家族は彼を(ユダヤ教の)トーラー学者(rabbi)にさせたかったらしいが、代わりに彼は現代チェスの創始者となった。モーフィーは輝かしい彗星だったが、シュタイニッツは40年間チェスに没頭して現在の形のチェスを確立した。彼は大局観の概念を明確化し、定跡を分類し、センターの支配等今日なお有効な古典的原則を確立し、チェスの全般的な水準と技術がかつてないほどのレベルにまで高まることに寄与したのである。
 距離を置くモーフィーとは好対照に、シュタイニッツは何に関しても攻撃的だった。そういう訳で、サージェントは述べている。「スタントンのペンは胆のうに浸されていたが、シュタイニッツのペンは硫酸に浸されていた」。


 最後の比喩は、胆汁より硫酸の方が強酸性ゆえに辛辣という表現だが、日本語ではそもそも辛辣さを酸性で表現しないのでちと分かりにくい(辛辣というように、せいぜい味くらいか)。日本人が思う以上に、単語そのものにこういう意味がしみ込んでいるのだろう。
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2007年03月05日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン モーフィーその5

 モーフィーの棋風の分析は、ある歴史的な偶然性のために錯綜している。モーフィーのチェスが活発だった時期は1年余り(1857〜1858)であり、それは現代の状況に比べるとチェスの発達がまだ初期段階だった頃である。強いマスターが増えたために、一世を風靡した大胆で威勢の良い棋風が衰え、もっと巧妙で洗練された保守的な棋風に道を譲るようになった。チェスの批評家はこの傾向を嘆き、モーフィーこそが、現代の腰抜けどもを目隠しで倒すコンビネーション・プレーの天才だと持ち上げた。これは、「昔は本物の男らしい野球選手、チェス棋士、ボクサーがいた」等とありきたりの不平を言う老世代の戯言に過ぎない。

 モーフィーの棋譜集に含まれる真剣勝負の55局に限ると、想像力をたくましくしても名局と呼べるものは少ない。ほとんどはひどく退屈なゲームである。コンビネーションを明確に読む能力(棋風以前の能力の問題)がモーフィーにあって対戦相手になかった。さらに、陣形的(position)プレーの重要性を直観的に理解することは、当時は全くといって知られてなかった。

 事実、モーフィーの棋風をアンデルセンやパウルセン等の主要対戦相手と比較すると、展開(development: 初期位置の駒を活動できる位置まで繰り出すこと)の原則の理解度に関して主たる違いがある。

 これは、ある意味ではモーフィーの人格の根源的な部分の表出に違いない。陣形的プレーは、基本的にはチェスの駒を最も効果的な方法で組織化する能力である。モーフィーが精神疾患の中で異常に自己を組織化していく様を検討した。他の強迫神経症や偏執病的な人格においても、このように極端な組織化が見られることがよく知られている。したがって、モーフィーの陣形的プレーの発達は、意味深長な方法で自分の世界を構成する試みから喚起された。そのチェスへの適用のみが生来の才能に発揮されたのである。

 これまでの理論的考察により、モーフィーの精神病の症状は十分に理解される。チェスにおいてまず父親へのライバル心が顕著だったが、その後は精神病的退行同一化(regressive psychotic identification)が支配した。チェス経歴を通じて、モーフィーは「紳士らしい」性格で評判だった。攻撃性を完全に抑圧したのである。彼の衣服を取り上げた、つまり秘密を暴露しようとしたと伝えられるビンダーへの同性愛的攻撃のみをきっかけに、さらなる抑圧症状が襲った。不安の欠如は、多くの観察によると自我の強さというより弱さの徴候である。モーフィーは、あらゆる人間の感情に縛られていない振りをしなければならなかった。神経衰弱になった おかげで、チェスに昇華する以前のモーフィーの特質が明らかになった。記憶は子供の頃の状況に逆戻りし、視覚は、オペラ鑑賞や女性の顔を凝視することの他にも、女性の靴を自室で半円形に並べるという奇妙な性癖により、のぞき趣味に堕した。なぜそんな風に靴を並べるのが好きなのかと聞かれて、モーフィーは答えている。「これを見るのが好きなんだ」。組織化と偏執病のそれの関連は言及されてきたことである。偏執病も、チェスに昇華された攻撃への恐怖の退行的表現といえる。非現実のチェス世界を受け入れられる代わりに、モーフィーは空想と現実を区別する能力を失った(精神病を通して父親と同一化した)。しかし、これらのことにもかかわらず、自我は入院しなくてもすむ程度には健全に保たれた。


 おもしろいが訳もしんどかったモーフィーは今回で終わり。次からは自作の「マスターズ」でも触れてない領域、シュタイニッツに入るので楽しみ。一般向けの内容だからとはいえ、「陣形的プレー」は我ながら情けない訳。tacticalと相反するpotisionalの訳語を何とか作れないものか。
 私自身も、趣味に毛が生えた程度のブログ記事をこれほど「組織化」して続ける点では、偏執病や神経症のようなものだが、一方では徹底的な合理化や経済化を自己に課す「超自我」も有している(笑。
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2007年02月25日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン モーフィーその4

 チェスを職業と見なすことを拒否したモーフィーは、いかなる職業も受け入れなくなる。このように深刻な厭世観は、スタントンに口汚くののしられたことから端を発しているに違いない。事実、隠遁生活はかなり早くから始まっており、チェスへの圧倒的な関心がその代償となっていた。10歳で指し方を覚え、12歳でニューオーリンズのチャンピオン、20歳で全米チャンピオン、21歳で世界チャンピオンになる。こうした偉業は、モーフィー以後にも多くの棋士が大筋においては繰り返してきたことである。しかし、これは膨大な時間と努力の犠牲なくしては達成できない。つまり、モーフィーは青春期のほとんどの時間をチェスに費やしたに違いない。知られているかぎり、彼は性交渉を持たず、あったとしてもせいぜい形式張らないものだったとされている。したがって、青春期の少年に付きものの男女間の駆け引きを、チェスに入れ込むモーフィーは放棄した。事実、彼はチェスを指すことによって精神病をはねのけた。

 問題は、生まれつきの天才が世界的名士に上り詰めたことだった。世界チャンピオンになると、もうチェスを軽視し、単なるゲームと見なすことはできない。チェスが余暇活動でなくなれば、その逃げ場としての機能も失う。つまり、さらなる退行(未発達の段階に心的状態や行動パターンが逆もどりすること)が生じる。今まで抑えられていた精神病が全力で襲ってくるのである。

 モーフィーの記録の独自性にも注目しておきたい。残された400ほどのゲームには、初期の22局と50局を超えるハンディキャップ戦も含まれている。しかし、大会やマッチのゲームは55局ほどしかない。今日では、非公式戦やハンディ戦の棋譜を保存する習慣のあるマスターはいない。モーフィーの棋譜がこれほど多く残っているのはなぜだろう? ほとんどの棋譜には独自の価値がなく、非公式戦ではまれである。これらは、モーフィー自身(または彼の同意を得た誰か)が意識下の自己顕示欲のために保存し、将来いつかゲーム集として出版するつもりだったに違いない。有名になったせいでこの自己顕示欲が(モーフィーの心中で)顕在化したために、退行することでしか精神的危機を回避できなくなったのである。

 多くの残された非公式戦によると、モーフィーがチェスを軽んじられなかったことも分かる。チェスが彼にとって重大関心事であると同時に、これを否定するために繰り返し労を惜しまざるを得なかった。モーフィーが有名になると、チェスは単なるゲームに過ぎないという彼が無意識に決めた主張は、もはや他者に対して説得力を持てなくなった。ここでもまた、退行が続くことになる。


 「ほとんどの棋譜には独自の価値がなく…」は、非公式戦でもモーフィーが手を抜かなかったことと矛盾すると感じられるかもしれないが、相手が弱すぎるといかに鮮やかに勝っても記録に残すほどの名局にならないという意味だろう。
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2007年02月18日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン モーフィーその3

 モーフィーが自らをプロではないと言い続けた重要性も見逃せない。1858年にヨーロッパからニューヨークへ凱旋したとき、その歓迎ぶりはたいへんなものだった。歴史上初めて、アメリカ人が旧大陸の国々と同等であるばかりか、各国から選び抜かれた代表にも勝ることを実証したと広く受け入れられたゆえに、モーフィーはアメリカ文化の名声を高めたのである。ある大学での大歓迎会に出席したモーフィーは、マスが真珠と黒檀のチェス盤と金銀の駒から成る記念品を贈呈された。色の付いた駒が数字を表す金時計も受賞している。

 この贈呈式では、歓迎会会長ミード大佐が、スピーチの中で職業としてのチェスについてほのめかし、モーフィーはその最も輝かしい代表であると述べた。モーフィーは、たとえ暗示的でもプロ棋士と見なされることには強く反対し、ミード大佐を歓迎会から外せと言わんばかりに怒りを露わにした。このときのスピーチで、モーフィーは以下のような発言もしている。


 チェスはひじょうに楽しくかつ科学的であるばかりか、最も道徳的な娯楽でもあります。他の金儲けが最終目的のゲームと違い、チェスは、金のためでも名誉のためでもなく擬似的に戦うことにより、それ自体が知性に訴えるものです。チェスは、断固として賢者のゲームです。トランプ台をチェス盤に取って代えれば、公衆道徳は目に見えて改善されるでしょう。

 チェスは、今までもそうですが、どのみち娯楽以外にはなりえないでしょう。他のもっと真面目な余技がおろそかになるほどのめり込むべきではありません。礼拝のときにもチェスが頭から離れないようではだめで、けじめを付け、それなりの領分に制限する必要があります。単なるゲーム、過酷な人生の息抜きとして こそ、チェスは奨励されるべきです。
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2007年02月08日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン モーフィーその2

 モーフィーの日課は正午きっかりに几帳面に正装して散歩することで、それからオペラの観劇に出かける夕方までまた休息した。オペラは一つの公演も見逃さなかった。母親以外の人間とは会いたがらず、母が親友を家に招こうとするときでさえ怒りを露わにした。亡くなる2年前にモーフィーは、ルイジアナの著名人に関する伝記企画の中で彼の生涯を紹介する許可を求められた。モーフィーは、ルイジアナ州最高裁判所裁判官だった父アロンゾ・モーフィーが総額146,162ドル54セントの遺産を残したとしているのに、跡を継がないモーフィー自身が伝記で触れられていないことに憤慨する手紙を送り返している。彼が話すのは常に父親の財産のことであり、チェスのことに少しでも触れられるとたいてい腹を立てた。

 モーフィーのチェスの才能と精神病の間に何か関連があるとすれば、それは何だったかという疑問が自然に湧き起こる。ジョーンズは、スタントンがモーフィーとの対局を拒否した件を重要視する。スタントンはモーフィーにとって絶大な父のイマーゴ(imago:幼児期に形成されたままの愛する人(親)の理想化された概念)だったので、モーフィーはスタントンに打ち勝つことが自身のチェスの能力を証明することと考えた。無意識には他の多くの棋士に対してもである。スタントンがチェス盤をはさんで向かい合う代わりに口汚く罵ったために、モーフィーは失望し、自身のチェス経歴を「邪道」として見限る。あたかも、悪意を露わにした父親が同様な態度でモーフィーに報復する態度を取っていたかのようである。モーフィーの人格の純粋で立派な発露と思われていたチェスが、今やたいへん子供じみた卑しい願望、父親を性的に攻撃すると同時に完膚無きまで打ちのめそうとする無意識の衝動によって具現化されていたことが明らかになった。

 しかし、モーフィーの才能をそのままに扱うジョーンズの理論に対するかなり重大な反論がある。1858年には、世界チャンピオンと見なされていたのはもはやスタントンではなくアンデルセンだった。チェス史家は、たしかに当時のアンデルセンをスタントンより上に位置づけようとしていた。1866年には、シュタイニッツがアンデルセンを破って世界チャンピオンとなった。そしてモーフィーはアンデルセンに圧勝した。したがって、モーフィーがスタントンの対局拒否にそれほど悩まされるべき理由が明白とは言えないのである。
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2007年02月02日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン モーフィーその1

 3) ポール・モーフィー(1837-1884)は、後年精神病を患ったので精神医学的関心の的となった。前述したアーネスト・ジョーンズの研究対象でもある(23)。

 モーフィーは1837年6月22日にニューオーリンズで生まれた。父はスペインとアイルランド系、母はフランスの家系を引いている。モーフィーは、10 歳のときに父からチェスを習った。12歳までにおじ(父の兄弟)を負かすほどで、ニューオーリンズで最強となった。1857年まで独学に専念してから ニューヨークへ発った。そこで初めて開催されたアメリカ選手権で難なく優勝する。翌年はロンドンとパリを訪れ、世界最強のマスターたちが集まる中、アドルフ・アンデルセンを含めて対戦相手をことごとく破った。スタントンだけは、モーフィーの尽力にもかかわらずマッチの誘いに応じなかった。

 ニューオーリンズにもどってからは、ハンディ付きで世界中の誰からの挑戦でも受けると告知を出した。この挑戦を受ける者が出てこなかったので、モー フィーは引退を宣言する。たった18か月、公の対局で姿を見せたのは6か月という経歴だった。

 引退(21歳の若さで!)後は法律に復帰したが−父は判事だった−成功しなかった。モーフィーは徐々に引きこもりと奇行の症状を再発し、結局紛れもないパラノイアに至る。47歳で「脳充血」によって突然死するが、父もそうだったように脳溢血の可能性が高い。

 後年の病症については、ジョーンズが以下のように報告している。モーフィーは、自分の人生を耐え難いものにしようとする人々に迫害されていると思い込んでいた。その妄想は父の財産を管理する姉の夫に起因する。モーフィーは兄が相続財産を奪おうとしていると思っていたのである。モーフィーは兄に決闘を申し込み、その後何年も証拠の準備に費やして訴訟に持ち込んでいる。裁判では、モーフィーの起訴事由には全く根拠がないことがあっさりと判明した。彼は他人、特に義理の兄に毒殺されようとしているとも思っていて、しばらくは母や未婚の妹の作った料理以外口にしなかった。もう一つの妄想は、共謀した義理の兄とその親友ビンダーに自慢の服を切り裂かれて殺されるというものである。モーフィーは、ビンダーの事務所を訪ねたときに突然彼を襲ったこともある。街中で美人を見るたびに立ち止まってじろじろ見た。ある時期は、以下の言葉を叫びながら憑かれたようにベランダを上り下りしていた。"Il plantera la banniere de Castille sur les murs de Madrid au cri Ville gagnee, et le petit Roi s'en ira tout penaud."注9

 注9:「町が被った悲しみとともにマドリードの壁にカスティルの旗を突き立て、幼い王はきまり悪く立ち去るだろう」。ジョーンズは、この文言の出典 を見つけられなかったと述べている。しかし、これは明らかに王が打ち負かされた悲しみ、モーフィーがもう何もできなくなった悲哀を言葉で表現したものである。前章の会話に関する解釈と比較されたし。



 最後のモーフィーが繰り返した言葉はフランス語だが、注9の英訳でも分かりにくいので仏語と照らし合わせてみた。それでも、Il (=He)がRoi (=King)を指しているのかどうかには自信がない(汗。

2007年01月26日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン アンデルセン

 2) アドルフ・アンデルセン(1818-1879)は、多くの点でスタントンと対照的である。アンデルセンはブレスラウ(当時はドイツ領Breslau、現ポーランドのブロツワフWroclaw)に生まれ、数年の家庭教師職の後、生涯ブレスラウのギムナジウム(ドイツの9年制高校)で国語と数学を教えた。女性としゃれた会話もできたと伝えられているが、結婚はしなかった。

 チェスの経歴は、1851年のロンドン大会優勝から華々しく始まった。その後は時と場所が許すかぎりチェスを指したが、教職のために招待を辞退すること が多かった。しかし、大会以外でも非公式なゲームを指している。実際に知られているかぎりでは、教授職は別として人生において真の関心事はチェスだけだった。チェスへの献身とそのたぐいまれな業績により、ブレスラウ大学は1865年に名誉博士号を授与した。学界によるこのような粋な計らいは、これ以来繰り返されていない。

 ライバルの両強豪モーフィーとシュタイニッツに破れても、アンデルセンは決して気に病まなかった。チェスをするのが好きで、勝ち負けは大したことではなかったかのようである。

 学校の先生をする独身男の平穏な生活においてチェスが果たしていた役割は明白である。それは彼にとって最大の性的はけ口だった。スタントンと全く異なり、アンデルセンは口論をせず敵も作らなかった。1851年のロンドン大会でのただ一つの不満は、「けしからん」高額賞金だったという。残存する故郷へ宛てた手紙には、あらゆるものがいかに高価だったかについて事細かに書かれている。しかし、他のすべての棋士や大会主催者は親切で、取り決めにも満足したと述べている。人生でチェス以外のことはすべて無難に規制されていた。自分をほんとうにさらけ出すことができたのはチェスだけだったのである。

 したがって、アンデルセンの棋風は全チャンピオンの中でも最もロマン的である。攻撃とサクリファイスには根拠があるものもないものもある。現実界で無変化に甘んじる男は、チェスの空想世界では平穏な役割には我慢できない。すべては流動的で、開かれ、大胆で、威勢がよく、冒険に満ちていなければならない。彼は次代の棋士(successor)について絶望的に述べている。「モーフィーと指す者は、彼を罠に掛ける希望など捨てるしかない。いかに狡猾に仕掛けた…」。アンデルセンが棋風を変える可能性はなかった。心理的に、彼は変われなかったのである。


 不滅・不朽局を除けばスタントンほどおもしろい話がないからか、アンデルセンはこれだけ。次のモーフィーは7ページあるからどう切るかがまた悩みどころ。最後の段落successorは「後継者」で済ましがちだが、弟子でもなく棋風も違うモーフィーをアンデルセンの後継者と呼ぶのはちとおかしい。
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2007年01月18日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン スタントン後半

 スタントンの才能は、チェスと文芸批評の両面で頂点に達した。シェイクスピア学者としての名声は『ブリタニカ百科事典』に掲載されている(13)。 文芸批評において「スタントンはチェスで秀でることにもなった鋭敏で注意深い資質を示した」と。

 スタントンのシェイクスピアへの関心は、そのままチェスにも十分あてはまる。作家の中でも最高の王だけしかスタントンの批評対象にならなかった。シェイクスピアは彼の英雄だったのである。同百科事典で『シェイクスピアの疑われていない改悪テキスト(Unsuspected Corruptions of Shakespeare's Text)』が、スタントンの最後の論文として言及されている。彼は、キングを攻撃から守らねばならなかったのだ。

 スタントンの棋風を論じる前に、「棋風」によって表される意味を明らかにする必要がある。

 広範囲に渡る精神分析の文献は、芸術家の作品と神経症(neurotic conflicts)の間にある密接な関係を描き出すようになってきた。そこでチェスにも、ゲームの人格構造への織り交ぜられ方と棋士が採用するスタイル の両面に関与する、同様に意識されない傾向があると予想される。

 一見したところでは、チェスでどのように勝つかは重要ではないように思える。しかし、経験によれば、同じ強さ同士の間でもゲームの取り組み方にかなりの 違いがあることが、綿密な分析によって明らかになっている。レティは、『チェス盤の名人たち(Masters of the Chess Board)』でこれを最初に指摘し、かなり詳細に立証した(32)。実際、どの芸術家でも個性的な作風がある程度作品に染み渡るので、専門家にはこうい う絵画はドガだダ・ヴィンチだという風に分かる。名人の棋風にも高次元で区別される型があって、専門家は直ちに見分けられるのではないか。しかし、ここには大きな違いがあることに気付く。技術的な理由のために、チェス名人の独創性はある種のゲームでしか−すべてではない−表れない。例えば、現代流行してきた用語「グランドマスター・ドロー」は、重要な競技会で互いに危険を冒したくないグランドマスターたち(世界チェス連盟は20〜25人存在するとしている)による早期の合意ドローを意味する。同様に、実力に大差があれば勝ち方も定型化してくる。

 これらの条件を念頭に置くと、チェスの棋風はまず大まかに攻撃的と防御的に分けられる。ときどきチェスには、ロマン的(攻撃)と古典的(防御)流派があると言われる。そのような極端な分類以外にも、綿密な検証によるともっと微妙な要素がたくさん現れてくる。ボトビニクのような棋士は、攻撃と防御の双方ともに長じている。アリョーヒンのような棋士は、攻撃はうまいが防御は見劣りする。レシェフスキーのよな棋士は、防御に秀でるが攻撃はうまくない。通常、名人たちは自身の気質に合った特定の定跡に固執する。

 スタントンの棋風の際立った特徴は、その平静(placidity)で不偏不党(eclecticism)な様である。彼には輝かしいゲームは残っていない。それは、もっぱら勝利が相手のミスにつけ込んだものだったからである。当時大人気だった一か八かの(va banque)ギャンビットは使わなかった。この超保守主義は、盤外での無遠慮な攻撃性とはひじょうに対照的である。しかし、このような外見上の矛盾は全 く例外というわけではない。温厚で保守的な人物が、盤上に攻撃性を噴出させて派手なチェスを指したり、攻撃的な人物が穏やかなチェスを指したりすることで、均衡を保てるのである。


 neurotic conflictは定訳を確認できなかったが、神経症の一種だろう。レティの著作はこれを読むと欲しくなるが、もうHardinge Simpoleの高いの↓しか入手できなさそう。eclecticismは通常「折衷主義」だが文脈に合うように変えてみた。「〜主義」という訳は大袈裟でしっくり来ないことが多い。va banqueは仏語語源の独語。
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2007年01月12日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン スタントン前半

 1) ハワード・スタントン(1810-1874)は、文芸批評とチェスの両面で偉業を成し遂げた。彼は、カーライル(イングランド北西部カンブリア州州都)五代目伯爵フレデリック・ハワードの庶出子だったとされている(13)。最初は舞台に興味を持ち、幕間の寸劇役者を経て、イングランドで最高権威の著名なシェイクスピア学者になった。チェス界への登場は比較的遅い30歳、1840年のことである。1843年に、フランス人棋士サン(聖)・アマンを破り、非公式ながら世界最強と目された。学者気質ゆえに、『イギリス論集(The British Miscellany)』と『チェス棋士年鑑(Chess Player's Chronicle)』という雑誌を創刊する。多くの著作もあり、彼の『ハンドブック(The Chess Player's Handbook)』(37)は、シュタイニッツが『現代チェス教本(The Modern Chess Instructor)』(38)を出版するまで代表的な入門書だった。
 1851年に、スタントンはロンドンでの大会、近代初の国際競技会を開催する。アンデルセンに優勝をさらわれたスタントンは、巧妙な言い訳をしている。1853年には、スタントンに代わって世界中に挑戦者を募ったが、賞金が基本的にアンデルセンに入る取り決めだったために受け入れられなかった。その後スタントンはチェスから引退する。数年後に現れたモーフィーが挑戦を申し込むが、スタントンは弁舌の限りを尽くして盤上での対面から何とか逃れた。
 人として、スタントンの性格はひじょうに攻撃的で、文章での議論が三度の飯より好きだった。自らを巻き込む猛烈な論戦が数限りなく報告されている。以下は、自身の雑誌からの好例である(15):

 法廷弁護士テンプル殿。 G. ウォーカーのチェスに関する新論文(New Treatise on Chess)内のチェスの原則(Laws of Chess)に関するばかげた変更を教えてくださり、「このようなくだらないものがロンドン・チェスクラブで承認されうるか?」とご質問いただきました。 ウォーカーの幼稚な考えを是認するには、笑うしかないでしょう。彼のチェスに関する本は、最低級プレーヤー以外に何の役にも立ちません。

 攻撃性、組織化力、自己愛が、スタントンの生涯を貫いていたことは明らかである。演技から執筆への移行は、思考が行動に取って代わったものと考えられる。その後、執筆からチェスへと思考から行動への移行が見られるが、後にもう一度転換する。
 チェス棋士としての経歴は、ロンドンでの敗北で実質的に終了した。敗北に付きまとう自己愛への打撃に耐えられなかったと単純に解釈して間違いない。


 スタントンのChess Player's Chronicleは、『マスターズ』を書いたときに迷って「〜新聞」とした、ページをとじた体裁かもしれないので「〜年鑑」とごまかしてみた(汗。実際に和訳があるわけではないので、原書名を併記しておけば大した問題ではないのだが。
 実戦を引退して執筆に専念と言えば聞こえはいいが、スタントンの意図はあまりにも見えすいている。著者ファイン自身も、世界チャンプになれなかった無念を執筆に転換したのだろう。私ももっとましなプレーヤーだったら、いかに翻訳が好きでもこんなことはしていないような(笑。

2007年01月05日

ファイン『チェス棋士の心理学』2 世界チャンピオン 序

 前述した分析は、かなり一般的かつ理論的なものだった。本章では、具体的に幾人かのチェス棋士の人物像を詳細に吟味し、前述の分析とどう比較できるかを検討する。この方法では3つの疑問に取り組むことができる。第一に、すべてのチェス棋士に共通して核となるような人格型が存在するか? 第二に、特定の個人の人生においてチェスをすることがどのような役割を果たしているか? 第三に、もしあるとすれば、人格とチェスの棋風との間にどのような関連があるか?

 本章の目的のために、19世紀の世界チャンピオンの人生について概説しておきたい。もちろん、そういう人々は標準的な棋士の代表とはいえないと退けることもできるだろう。そういう主張もある意味正しい。しかし、せいぜいいくつかの特徴に関してのみ部分的にあてはまるだけで、全くそうとは言えない。チャンピオンと並の棋士の素質には多くの相違点があるが、人格構造はほとんどの点で違わないと考えられる。これは他分野の創造的芸術家にもあてはまる。ダ・ヴィンチ、ゴッホ、ピカソ等の著名な画家の研究は、無名の仲間の人格構造にも光を当てる結果となった。才能や訓練に関係なく作風と人格には必ず関係があると、(心理的)投影法のために仮定される。

 およそ1世紀余りに渡って、チェス界はいわゆる世界選手権を組織し続けられるようになった。タイトルそのものは、1870年にシュタイニッツが多くの業 績を根拠にチャンピオンを主張して以来用いられている。シュタイニッツ以前の非公式チャンピオンには、スタントン(1844-1851)、アンデルセン (1851-1858, 1859-1866に返り咲き)、モーフィー(1858-1859)がいる。シュタイニッツ(1866-1894)以後の公式チャンピオンは、ラスカー (1894-1921)、カパブランカ(1921-1927)、アリョーヒン(1927-1935, 1937-1946)、エイベ(1935-1937)、ボトビニク(1948-現在)である。


 本章に入ったら当初の予定通りにスピードアップできると思っていたが、心理学用語を平易に訳すことに腐心していると時間が際限なく経過してしまう。元日の記事で今年も600ページ訳すと宣言したばかりなのに、そこで誤訳もやらかしてたことだし、以下のようにちと方針を改める。
 連載数は今まで通り維持するが、1週間のローテーション期間にはこだわらず、書けた時点でアップロードする。そもそも1日1記事を守るために夜半を待ってアップロードするのがバカバカしかった。固めて上げるのは、ブログのテンプレートが1日単位で表示する程度の問題に過ぎない。

 今年は造形の仕事がメインになることは間違いないし、特殊メイク等も加わってくる。出版翻訳の魅力には及ばないものの産業翻訳よりははるかにおもしろいので、さすがにそちらへ本腰を入れ、もう少し買いたい本を気軽に買えるくらいの文化的な生活(月収10万円?)を目指すことにした。
 なので、1日3時間とか時間を決めて時間内に完成しなければ翌日に延期という感じになりそうだ。その代わり、今回のように短い量に区切ったり、1日に2種類アップロードすることもあるだろう。集中力を上げて密度を濃くしていくと前向きに考えたい。

2006年12月29日

ファイン『チェス棋士の心理学』2 チェス概論 その8

 自我の立場からすると、プレーヤーがそれほど長い間多くの不安に打ち勝つためには、とてつもない強靱さが必要とされる。この点でまたもや、わずかな不安から逃避して衝動に走る公然の同性愛的弱い自我と対照的である。

 自己愛は、ゲームのいくつかの特徴から導き出される。チェスは個人的な競技である。キングという駒は、すでに述べたような自己同一のお膳立てに適している。したがって、勝利は自画像の雄大な一面を引き出せる一方で、敗北は弱さの感情を露わにする。ここで導き出される自己愛は、主として男根期のそれであり、口唇期に特有の初期型自己愛ではない。しかし、男根期に自己愛が強くなるのも、口唇期に固着した度合いに影響されてのことである。

 キングは、チェスプレーヤーの他の特質、英雄崇拝をも引き出す。他の駒とは大きく違い、キングは難なく伝説の英雄の象徴となりうる。チェスプレーヤーには、ジャンルを問わずに尊敬する人物を見つけてお手本にしようとする習慣がある。当然ながらこれは父親からの転移だが、こういう置き換えができることは、人格形成においては総体的にプラスとなる。再び対照的なことには、公然の同性愛は通常、父親と一体感を持つことも、男らしい自我理想(ego-ideal)の形成に役立つ父親代わりの人物を見つけることもできない。

 ハンス・ザックス(35)は、自己愛が自己から対象へと転移することを芸術創造の一要素として初めて指摘した。これは、チェスと芸術界を関連づけるもう 一つの鍵である。

 自己愛が行き過ぎると、チェスプレーヤーの人格の特徴は分かりやすくなる。自身とその業績や自分の英雄の偉業に夢中になりすぎる。正当な対象との関係、特に女性への共感が発育不足になる。攻撃性と同性愛が抑制されているために男性とはたいていうまくやっていけるが、女性がつまずきの元となる。女性への優しい感情を持つことはとりわけ困難であり、それは男性との関係に閉じこもっていることから合理的に説明できるだろう。

 一方で、自己愛には健全な一面もあり、伝統や芸術の本質を見抜いたり、新しく価値あるものを創造する助けとなる。フェダーン(14)は、健全な自己愛は 創造的な人物には珍しくないことを指摘した。アン・ロー(33)の研究も、著名な科学者たちが自己愛的であり、総体的に性心理的発達にやや後れが見られる としている。

 最後に、のぞき趣味と自己顕示欲(voyeurism-exhibitionism)にも一言触れておかねばならない。これは、二人の男同士の状況で全く意識されずに満足感が得られている。その結果、チェスプレーヤーは人混みの中では落ち着かなくなり、やや引きこもり傾向があると見なされる。さらに自己愛的要素が加わるので、組織化された集団に無関心になりがちである。

 実際の個々人を検討する前に、本章の重要点を手短に要約しよう。チェスにおける本能的葛藤は、肛門期と男根期のあらゆる男性に共通する葛藤、特に攻撃性や自己愛、ペニスへの態度をめぐって満足させられる。これらはすべてゲームの中ですでに象徴化されている。象徴の中心となるのはキングという駒であり、以下の3つの異なる意味によって重複決定されている。男根期の少年のペニス。代替不能、不可欠、最重要だが脆弱と感じる男性の自己イメージ。少年サイズに縮小された父親である。プレーヤーが上達する中で、チェスは少年が父親に追いつき乗り越えようとする戦いの一部を成している。

 自我は明確な特徴を示す。その一つは、知的防御を好んで使うことである。しかし、空想にふけっている間も、プレーヤーは自己を見失わない。ファンタジーワールドから抜け出ることもできる。不安は多いが、うまく耐えられる。衝動的エネルギーは、成果を上げるためには抑え込める。全体として自我はかなり強靱となり、とりわけ知性の有効利用と難局を堪え忍ぶ能力は顕著である。自我の弱点は、主として自己愛に耽溺することであり、同性愛から異性愛段階への成長が困難となる。


 今回でやっと「チェス概論」は終了。analやpenisの訳に統一が取れなかった等の表面的な問題以外にもいろいろたいへんな章だった。「葛藤(conflict)を満足(gratify)する」という表現は、ググっても4万以上あるから素直にならったが、葛藤は解決するものではなかろうか?

2006年12月21日

ファイン『チェス棋士の心理学』2 チェス概論 その7

 チェスプレーヤーの自我が攻撃性を抑制して知力へ昇華する一方で、攻撃性それ自体もゲームに満足感を与えている。したがって、チェスプレーヤーを完全に受動依存性人格と見なすわけにはいかない。むしろ、彼らは攻撃性のはけ口をたくさん持っており、ゲーム内なので社会的にも容認される。このことから、チェスの名人は他の分野でも多くの業績をなし得ることが予想されるし、事実その通りである。

 これは、ミルトン・ガーヴィツ博士の論文と関連が深い。博士は、自身の監獄での心理学者としての経験から、投獄中にチェスを覚えた囚人は常習犯罪者になりにくいと述べている。彼らは自身の攻撃性をうまく操れるようになったのである。チェスを指すために必要な自我の強さが、ここでも役立っているに違いない。

 二人の男が女性もいないところで何時間も自発的に一緒にいる状況においては、同性愛的な含意を考察する必要がある。観察したかぎりでは、あからさまな同性愛はチェスプレーヤー間にほとんど見られない。今世紀のマスターの中では、私はたった一例を聞いたことがあるだけである。チェスのマスターとよく比較される芸術家においては、この傾向はさらに顕著であり、同性愛は珍しくない。

 チェスにおいて男根を象徴する豊富な事柄は、同性愛的願望、特に相互自慰の願望を空想的に満足させる。当然ながら、これは完全に抑圧されている。チェックメイトは父親を性的不能にし向けるようでもあり、同性愛コンプレックスの一部とも見なされるだろう。

 多くの点で、明白な同性愛的自我は、チェスプレーヤーのそれとは全く正反対である。ビチョウスキー(6)は、同性愛的行動の擁護に用いられる典型的な理由の数々を列挙している。とりわけ、自己愛や先自己愛(pre-narcissistic)気質に基づく弱い自我構造、本能的刺激の衝動に負けやすい自 我、本来の目的のために原始的な快楽を自制できないこと、本能的興奮によって精神機構が制御不能になることである。これらはすべて、チェスプレーヤーに見られる傾向とは全く正反対である。チェスプレーヤーの自我は強靱で、かなりの本能的興奮にも我慢でき、本来の目的のためには原始的快楽を捨ててひじょうに大きな衝動的エネルギーも無力にすることができる。

 ゲームに付きまとう不安もよく意識されることが多い。チェスプレーヤーは、「イライラ(nervous)」や「緊張(tense)」、ゲームのせいで眠れないこと、駒が頭の中で踊ること、敗北が深刻な打撃になること等の不平を言う。ゲーム中の緊張がたいへんなことはすでに述べたが、それにもかかわらず、攻撃的行為や身体的接触等、緊張を解放するはけ口となることは抑制されている。

 不安の源泉は明白である。攻撃性と同性愛が深く抑制されている一方で、依然として偽りの形で明るみに出ているために、罰への絶え間ない恐れを抱いているのである。偶然という要素がいささかもないために、勝利は自分自身の努力の賜であり、敗北は自分自身の失敗の報いである。したがって、勝つことは父親を倒すことであり、負けることは父親に倒される、つまり父親に屈服することである。結果的には、父親との争いに関する例の葛藤が常に存在するので、これが現実になるかもしれない恐怖心が、くまなく広がる不安につながっている。

 これらの不安にもかかわらず、最後の分析をしながら、プレーヤーは常に戦いが見せかけであることに気付いている。打撃の辛辣さは、しょせんゲームにすぎないという事実によって緩和される。チェックメイトをめぐるルールと実践も、不安の多くを和らげてくれる。しかし、実際のゲームによってどれほど不安が抑制されようとも、ほとんどの男性にはかなりの心配事が残っているので、チェスプレーヤーにおける緊張と不安の状態は、あらゆるノイローゼの徴候に最も多く見られるものと思われる。

2006年12月15日

ファイン『チェス棋士の心理学』2 チェス概論 その6

 組織化力−一般推論の一側面−も欠かせない。チェスプレーヤーは、駒が最大に働けるようにそれらの動きを調整して統一を図れねばならない。この意味においてチェスの戦略は軍事戦略と類似しているので、ウェスト・ポイントのような陸軍士官学校では、伝統的にチェスが必須科目となっている。

 想像力は、チェスでは視覚化力と関連して用いられるが、ある程度は独立した能力でもある。チェスは、それ自体が人工的な創造物である。音楽や美術、文学のように独自の世界を有しており、現実の物事とは無関係で日常の出来事には適応できない。とりわけ、チェスと芸術界をつなげるものは創造的表現の機会である。(キングや他の駒と)自己を重ね合わせる機会は、もう一つの事柄につながる。

 これらの知的能力を利用し、本能的エネルギーをこのように抑圧するためには、自我がそうとう強靱でなければならない。賭博師やトランプ師の能力と違い、チェス棋士の防御力は比較的老齢期になって顕著となる。したがって、思考が行動に取って代わることは、一見するとよく知られた妄想メカニズムの単純な一例に思われるが、これをチェスの全般に当てはめても単純化の行き過ぎになるだけである。純粋な妄想と違い、チェスプレーヤーは行動で空想を止め、ファンタジーワールドから復帰するので、自我の高度な発達水準が要求される現実の能力もうまく使える。

 平均的なチェスプレーヤーには、ゲームの知的な魅力はきわめて意識されており、実際に大いなる利点と見なされている。チェスをする理由を聞かれれば、脳と脳が対決する技能競技だからと答えるだろう。

 それとは対照的に、攻撃性は深く抑制されている。チェスが敵対感情のはけ口になっていることを知ると、多くの者は驚く。ゲームの性格が攻撃性の隠蔽に一役買っているのである。まず、殴り合いは実際にもシミュレーションとしても出てこない。前述したように、敵の駒を取るという通常の目的は、チェックメイトというさらなる巧妙な目的に転換する。キング以外のすべての駒は取ることができる。キングはチェックメイトするしかない。つまり、キングが攻撃(チェック)されながらルールに則った(チェックを防ぐ)手を指せない状態がチェックメイトである。ルールに則った手を指せない状態に追い込むだけでは不十分で、それはステイルメイトと言い、ゲームはドローになる。キングは攻撃されていなければならないが−キング以外の駒だと取られる前の段階−それでも取られることはない。

 チェスの他のどのゲームとも異なるこのような複雑な事情は、意識されない言外の意味に満ちているに違いない。例のキングが象徴する3つの意味に適応するなら、チェックメイトは、まず去勢を、次に隠れた弱点の露呈を、3番目に父親の崩壊を意味する。3つとも、無意識に留まっているに違いない。したがって、チェスプレーヤーは自らの敵対的感情を認めることができない。

 プレーヤーが上達するにつれ、チェックメイトという加減された一撃でさえ後景へ退いていく。やがて、チェックメイトにされる可能性よりはるか前に、圧倒的な戦力差に降参つまり投了するレベルに達するのである。マスター同士のゲームでは、異常な事態でもないかぎりはチェックメイトまで続かない。千局に一回も起こらないことである。

 経験がほとんどないプレーヤーはたいてい、キングへのあからさまな攻撃に最大の楽しみを見いだすようになる。上達するにつれ、陣形的(position)プレー、ポーンの巧みな駆け引き、使用可能な戦略等の微妙なニュアンスに重きを置き始める。ここでも、あからさまな攻撃性は影を潜めていく注8
 注8:多くのチェス批評家があからさまに攻撃する愚直な傾向を克服できないために、不幸にもチェスの文献がばかげた注釈であふれている。 一つには、批評家が自身のエディプスコンプレックス的欲望をチェスマスターに実現してもらいたいという無意識の願望があるからに違いない。


 imaginationは想像(力)と訳していてcreativity創造(力)とうまく使い分けられていると思ってきたが、第2段落のimaginative expressionは「創造的表現」とした。チェスで言うと盤面を頭で視覚化するまでは「想像」だが、戦略を生み出す等のアウトプットはimaginative...でも「創造」とすべきだろう。
 最終段落の「使用可能な戦略」はopen strategyである。公開されたプログラムopen sourceのような用法だろう。

2006年12月08日

ファイン『チェス棋士の心理学』2 チェス概論 その5

 会話に関しても同様な矛盾が見られる。原則としてほとんどのプレーヤーはゲーム中にしゃべらないが、例外として非公式戦ではそれと正反対にしゃべり出すと止まらない者もいるのが興味深い。ある者は、ルイス・キャロルの詩を暗唱する。また、ある者は独特で無意味な独り言さえつぶやく。チェックをするときに"Shminkus krachus typhus mit plafkes schrum schrum."と言うと、もう一人が"Let us go to Vera Cruz with four aitches."と必ず応える。通常の会話では絶対出てこない文句である。まるで、あらゆる身体的活動が子供並みであることが許されているかのよう。も ちろん、言葉が本来の意味から乖離しているのは妄想思考に特有である。

 これら様々な両極性は、思考過程を研ぎ澄ますために役立っている。自我は、葛藤を克服するために知的手段と空想を利用する。しかし、この過程が遠大になりすぎることは許されない。ゲームの性質により、プレーヤーが常に現実に引きもどされるからである。思考は行動に取って代わるが、行動もまた思考の流れを妨げない。この点において、チェスプレーヤーは例えば、外部からの刺激があっても空想をやめない空想家や精神分裂症(総合失調症)患者とは区別される。

 思考過程そのものは、科学研究上の問題にある意味で比肩するほど高度な秩序を要求する状態と、単なる妄想的両面価値を表現する状態との間を行きつもどりつする。したがって、行動から思考への移行は、個人の知的能力を発揮させるためでもあり、行動によって引き起こされる様々な不安を避ける防御的方策でもあり、これらの理由が混在しているためでもある。

 チェスでは、何よりも知的側面が強調される。知的側面とは何だろう? 1925年に成されたロシアの研究はこの疑問に答えようとしたが、方法が今日の基準に比べるとお粗末すぎた。我々は、いくつかの概念を試験的に提起することしかできない。

 チェスにおいては、4つの知力、記憶力、視覚化力、組織化力、想像力が優勢と思われる注7
 注7:デイヴィスは、1952年にウェクスラー‐ベルヴュー知能テストによる要素分析(9)において、明確に7つの要素を識別した。このうちの3つ、視覚化、一般推論、概念関連演繹は、上記の4つと密接に関連する。知的側面は、ハートマンの言うところの(21,22)基本的に自律的な自我の機能とここでは仮定している。

 チェスを上手に指すためには、数百や数千の局面をあらかじめ知っている必要がある。名人の記憶力は高度に専門化かつ熟練しているので、しばしば素人には信じがたい離れ業を見せてくれる。マスターは五六十局を同時に対局できる。一手ずつ指しながら盤の前を次々と移動するのである。ある盤の局面がポーンを1マスずらすというふうに微妙に変えられていても、すぐにその違いに気付くだろう。本人は意識していなくても、六十局すべてにおいて正確にある程度の記憶の糸をたどっていることは明らかである。

 視覚化は欠くことができない。プレーヤーは、実際に手を指すとき以外は駒を動かしてはいけないからである。アダマール(19)の研究が数学的創造性にお いて視覚化が大した役割を果たしていないことを発見したことは、注目に値する。数学者は、より抽象的に思考する傾向があるからである。これは、数学とチェスのどちらかを選択する際の決定要因かもしれない。

 視覚化力が発展し続けたマスターは、盤や駒を見ずに指せる(「目隠し(チェス)」)ようになる。どのマスターでも、1局の目隠しチェスくらいは難なく指せるし、もっとたくさん指せるマスターも多い。今日の世界記録はナイドルフが保持する45局である。こんな多数のゲームを独りで同時にこなすためには、45個の常に変化するチェス盤のイメージを頭の中に思い描き、盤の番号とイメージを正しく対応させ、すべてのイメージを正確かつ意のままに視覚化できねばならない。電光石火の計算力(4)を持ってしても、この能力はもっぱら目隠しチェスに限られる。だからといって、早くに他の分野で同等の経歴を築いていても視覚記憶能力はそこで発達できないという意味ではない。記憶力は、視覚化においても大きな役割を果たす。一般に公開目隠しチェス対局の終了後には、主役の棋士は、すべてのゲームの指し手を正しい順序で正確に一つずつ言うことができる。