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2005年10月06日

マスターズ第1話:フィリドール

"The pawns are the soul of chess." - Francois Andre Danican Philidor
「ポーンはチェスの魂である」−フランソワ・アンドレ・ダーカン・フィリドール

 丸訳ではないもう一つの新連載も始める。古い順にその時代の名手たちを紹介するというありきたりのものだが、世界チャンプ以外の人たちやそ のあまり知ら れていない部分も取り上げていきたい。元ネタは主にショーンバーグの"Grandmasters of Chess"である。


 18世紀初頭のパリカ フェは、政治家作家のたまり場となっていた。午前中だというのに、タバコやアルコールの匂いが プンプンするひしめき合ったテー ブルの間をウェイターたちがかき分けるように進まねばならない有様だった。
 有名なカフェ、レジャースには、ヴォルテールルソーディ ドロロベスピエールナポレオン(チェス好きだがマナーの悪いかんしゃく持ち)、ベンジャ ミン・フランクリンらも訪れた。

 1750〜1830年頃のパリは世界のチェスの中心で、このカフェはその総本山だったと言ってもいい。初期にはケルマルレ ガル、シリアのスタマがい た。賭けチェスの「プロ」は、セント=アマンら後のプレーヤーに受け 継がれていく。
 1726年生まれのフィリドールはこういう環境の中で育った。父親 はそのとき79歳(!)で、1650年代から続く音楽家家系であっ た。フィリドール自 身も音楽を学び、末っ子にして一族の中で最も有名な音楽家となる。そしてその才能はチェスでも開花するのである。

 6歳でベルサイユの聖歌隊に入り、優秀な生徒として作曲や理論も学 び、12歳で作曲を始める。フィリドールにチェスを教えたのもベルサイユの音楽家だっ た。夢中になった彼は、音楽そっちのけでレジャースに入り浸り、レガルに教えを乞い、目 隠し同時対局に衝撃を受ける。
 しかし、チェスで生計を立てる術はなかった。作曲やレッスンで音楽家として踏みとどまろうとするが、金策尽き、債権者たちにコンサートツアーへ行くと 言ってパリを離れるしかなくなった。それもわずかの雇われ仕事のため、アムステルダ ムで無一文になり、カフェでチェス・ハスラーを始め る。

 その後数年でめきめきと頭角を現してロンドンへ渡り、先に渡英して いたスタマを8対1で圧倒する。しかも先手のハンデとドローはスタマの勝ちとするルー ルであった。そしてアーヘンで有名な著書"Analyse du Jeu des Echecs"(チェスゲームの分析)を執筆する。
 イギリス貴族(サンドイッチの語源となったサンドウィッチ伯爵も)の支援で1749年に出版される。すぐに人気は出なかったものの、当時手に入 る最も重要なチェス本となり、後に様々な言語にも翻訳されて100以上も版を重ねた。(確証はないものの、イギリスではヘンデルに会ったに違いないと ショーンバーグは主張している)

 ロンドンでは当時としては驚嘆ものの3人同時目隠し対局を行い、ベルリンを 訪れてはフリードリッヒ大王の御前でも披露する。パリへもどるとかつ ての師匠 レガルをマッチで打ち負かす。しかし、パリの友人達は有望な作曲家がチェスなんかにうつつを抜かしてと心配していた。
 1754年にパリへもどったフィリドールは、ヘンデルの影響を受けた壮大なコラールを含んだモテットを作曲して、渡英がむだでなかたことを示す。しか し、 王は彼を宮廷音楽の監督には迎えなかったので、フィリドールは舞台音楽、オペラの 作曲へと邁進することになる。

 標題音楽の萌芽と見られる擬音的手法を開拓した彼の音楽も、今日では一部の器楽曲以外ほとんど演奏されない。バロック以前のオペラがほとんど上演されな いことを考えれば仕方ないが、近年は当時の手動式の舞台装置を復元してバロックオペラを再演する気運が高まっているから、そのうち人気が出るかもしれな い。
 オペラ作曲家として成功したフィリドールだが、ロンドンに誕生したチェスクラブか ら毎年シーズンに招待されるようになると、またチェスの虫が騒ぎ出す。 この頃から、「彼は優れた音楽家『でも』ある」と言われるほど音楽よりチェスが重要になってくる。チェスのレッスン公 開対局からも収入を得るようになっ た。

 再び心配するパリの友人たちの中でも『百科全書』のディドロは、目隠し同時対局でのの 酷使をやめるように手紙を出す。レガルの助言も踏まえた上で、作 曲の代わりに無益な「材木押し」をするのはやめてくれという内容だが、20世紀にソ 連が目隠し同時対局に時間制限を課す200年以上前に 脳の負担が指摘されていた ことは注目に値する。
 フィリドールはこの手紙に感謝し、母国にいるに心配しないように と手紙を書いた。彼の本心はどうだったかのか。本国ではまだしもイギリスでの作曲家と しての人気はなくなり、家族まで養うにはチェスで稼がざるをえなかったことがその手紙から読み取れる。

 フランス革命以後は毎年ロンドンへ招待されたが、1793年に英仏戦争が始まるとフランスへ帰れなくなる。1795年にパリへもどろうとする が、自分の 名前が亡命者リストに載っていることに気付く。帰国はを意味することになる。
 家族がリストから名前を消すことに成功するが、時すでに遅かった。1795年8月31日、ロンドンでフィリドールは帰らぬ人となる。孤独な極貧の中での 死をロンドンの新聞はこう伝えた。「著名なチェスプレーヤー、フィリ ドール氏、最後の手を指す」

 フィリドールが当時の名人達の間でも抜きん出ていたことは間違いない。ハンデなしでは誰もまともなゲームができなかった。基本原則といったものを初めて 考案し、十分に理解されるにはかなり後の時代を待たねばならないポジショナルプレーの 感覚を持っていた。
 ルーベン・ファインによると、ルック終盤のフィリドール・ポジションを初めとして、現代チェスのレベルと初めて比肩しうるマスターである。以下もファイ ンの紹介するゲームだが、シュタイニッツよりさらに奥ゆかしい棋風と いう感じがする(笑。

キャプテン・スミス−フィリドール 1790年、ロンドン

1. e4 e5 2. Bc4 Nf6 3. d3 c6 4. Bg5 h6 5. Bxf6 Qxf6 6. Nc3 b5 7. Bb3 a5 8.a3 Bc5 9. Nf3 d6 10. Qd2 Be6 11. Bxe6 fxe6 12. O-O g5 13. h3 Nd7 14. Nh2 h5 15. g3 Ke7 16. Kg2 d5 17. f3 Nf8 18. Ne2 Ng6 19. c3 Rag8 20. d4 Bb6 21.dxe5 Qxe5 22. Nd4 Kd7 23. Rae1










23...h4 24. Qf2 Bc7 25. Ne2 hxg3 26. Qxg3 Qxg3+ 27. Nxg3 Nf4+ 28. Kh1 Rxh3 29. Rg1 Rxh2+ 30. Kxh2 Rh8+ 31. Nh5 Rxh5+ 32.Kg3 Nh3+ 33. Kg4 Rh4# 0-1

 ポジショナルプレーのはシュタイニッツと言われることが多いが、 それはフィリドール以降のチェスがロマン派花盛りになってしまったか らだろう。フィリドールの 考え方がすぐに理解継承されていれば、彼が祖と呼ばれるようになっていたに違いない。欲しいけど高い〜!↓
Analysis Of The Game Of Chess
1843821613 Frangois-Andri, Danican Philidor

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posted by 水野優 at 00:07| Comment(0) | マスターズ(チェス近代史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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