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2007年04月10日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン ラスカーその1

 5) エマヌエル・ラスカー(1868-1941)は、さらにまた違った人格を表している。彼は1868年にベルリンヘン(Berlinchen:現ポーランドのバルリネクBarlinek)で生まれた。駒の動かし方は12歳のときに兄ベルトホルトから学んだと言われている。兄も独力で一流のマスターになったが、職業は医学に邁進した。エマヌエルは、15歳まではチェスを真剣にはやらなかった。1889年にブレスラウの重要な大会で優勝し、ドイツの慣例に従ってマスターの称号を得る。1892年にはイギリスを長期訪問して数多の成功を収めた後、シュタイニッツを破るために1894年にアメリカへ渡った。世界選手権を制した後も、セント・ペテルスブルク 1895-96、ニュルンベルク 1896、ロンドン 1899、パリ 1900等の大会で圧勝する。当時、他のマスターたちより頭一つ抜きん出ていたことは明白である。

 その後しばらく競技会からは身を退き、1900年にエアランゲンで数学の博士号を取得する。数学を教えることもプロのチェス棋士でいることもできたが、自身を哲学者と見なし、そのときどきで興味を引かれるものに何でも没頭することを好んだ。その主張とは裏腹に、時折のチェスは指し続け、後年まで最強棋士に留まる。1924年、56歳のときにもなお、カパブランカを含む一流ライバルたちを抑えてニューヨーク大会で優勝した。

 1908年にはドイツ人作家と結婚し、40歳にして一度に夫、父、祖父となった。妻が7歳年長で、すでに祖母だったからである。

 1921年にラスカーはカパブランカとの世界選手権マッチに敗れる。ラスカーは実際のところあまり乗り気ではなく、1907年の著作『闘争(Kampf)』で唱道したように抵抗するよりも時期尚早に投了した。数年後、チェスの世界組織は創造的芸術家たらんとするいかなるチェスマスターにも非友好的と公言し、公式に引退を表明する。9年間チェスから離れていたが、出現したナチ政権に私財を没収されたために、1934年に財政的な窮乏により復帰を余儀なくされた。1935年のモスクワでは67歳にして3位という未だ健在ぶりを示し、その偉業は「生ける奇跡(biological miracle)」と喝采される。モスクワに数年留まった後、1937年に帰郷し、1941年に没した。

 ラスカーは基本的に独立独歩精神の持ち主で、生涯のほとんどはフリー契約による知的活動に費やされた。興味は多種多様である。数学を教え、哲学書を執筆し、第一次世界大戦で使われた戦車の一種を発明し、ゲームと盤上競技に関する百科事典と、晩年には『未来の共同体』(30)という社会改革に関する連作本執筆まで企画した。
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この記事へのコメント
はじめまして^^

私の芸能サイトで
こちらの記事を紹介させて頂きましたので
ご連絡させて頂きました。

紹介記事は
http://newstoday0002.blog96.fc2.com/blog-entry-157.html
です。

これからもよろしくお願いいたします^^
Posted by 今日のひとこと at 2007年04月10日 15:07
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