ホームページは「チェストランス」です。古い記事では図の駒が表示されません。

2007年04月04日

ファイン『チェス棋士の心理学』3 世界チャンピオン シュタイニッツその3

 チェス界に君臨する間、シュタイニッツは自分の心配事を十分に制御することができた。しかし、1894年にチャンピオンをラスカーに奪われ、1896年のモスクワでのリターンマッチにも敗れたとき、精神病の軽い発作に見舞われる。この敗北後はユダヤ人のチェスに関する本の執筆をできるだけ速く進めようとし、そのために英語とドイツ語の両方に堪能な若いロシア人秘書を雇った。コードも受信機もなく電話できるという妄想が膨らみ、秘書は見えない電話がかかってくるのを待ちわびるシュタイニッツをたびたび目にする。窓ぎわへ行って話し、歌い、返事を待つこともあった。秘書がアメリカ人カウンセラーに相談すると、モロソー(Morossow)・サナトリウムへの入院を勧められる。1897年2月11日のことだった。1897年3月6日、シュタイニッツはウィーンにいる幼なじみの内科医に手紙を書いている。「どの狂人とも同じで、医者たちは私よりも気が狂っていると思う」。彼は精神科医に助言する正気も持ち合わせていた。「ユダヤ人のように私を扱い、追放するがよい」

 シュタイニッツはそのとき60歳だった。無線電話の妄想は無害の奇行に終わる。数週間後には解放されて4年以上もチェスの大会に復帰したからである。1900年、死の直前に再び様々な妄想が現れる。電流を発してチェスの駒を思いのままに動かすことができると考えた。神と電気的に交信して1ポーンと先手のハンデを与えることができたと主張したとも伝えられている。それからしばらく入院し、異常なしとして退院し、数週間後に亡くなった。

 シュタイニッツが何か器質的にもうろくしたにせよしなかったにせよ、彼の老年期の妄想はラスカーに敗北したことを埋め合わせるためだったと解釈できる。攻撃性がもはや功を奏さなくなると、取って代わった退行が以前の誇大妄想レベルにまで進行したのである。

 シュタイニッツの人格と棋風の関連は、ひじょうに単純かつ直接的である。青年期の彼は大胆なギャンビット使いで、激しい攻撃と華やかなコンビネーションで勝利していた。皮肉なことに、この時期のゲームには、モーフィーが指しそうだが決して指さなかったような特徴が見られる。明らかにシュタイニッツは、力ずくで父親を引きずり下ろそうとしていた。自身がチャンピオン、つまり父親になると、息子たちからの攻撃を退けねばならない。それに従い、棋風は根本的に変化し、不屈の防御的棋士になった。といっても、攻撃を極限まで高めたのと同様に防御を極めたのである。とてつもなく不均衡な局面に突入し、シュタイニッツにしかできない芸当でその危機から脱出する。黒番でお気に入りのある定跡では、e5マスのポーンをいかなる攻撃からも守り抜く。それは、実生活で他人に 耳を貸さずに自分の考え方を頑固に貫くこととちょうど同じである。

 防御性はしばしば挑発的な性格を帯びることがあるが、シュタイニッツは極端なまでに挑発的になりえた。彼に何度も苦汁を飲まされていたイギリスのマスター、ブラックバーンは、かつて怒り心頭に発し、宿敵シュタイニッツを窓越しに殴ったという。ブラックバーンはチェス以外に酒をこよなく愛していたから、おそらくこのときも酔っぱらっていたのだろう。しかし、シュタイニッツが頭を叩かれるような目に遭うのも無理はないと思われる。

 シュタイニッツのケースでは、実生活上の態度がそのままチェス盤上に引き継がれる様を見た。しばしば生じる型とはいえ、決して不変の原則と見なすことはできない。


 e5ポーンを守る定跡は、ルイ・ロペスのシュタイニッツ・ディフェンスのことだろう。最近、前金までいただく仕事の依頼があるので本ブログの更新が危うくなってきた(汗。とにかく、次回からラスカー。
The Modern Chess Instructor (Tschaturanga)
3283001111 Wilhelm Steinitz

Olms 1984-12
売り上げランキング : 807570


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。