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2006年12月21日

ファイン『チェス棋士の心理学』2 チェス概論 その7

 チェスプレーヤーの自我が攻撃性を抑制して知力へ昇華する一方で、攻撃性それ自体もゲームに満足感を与えている。したがって、チェスプレーヤーを完全に受動依存性人格と見なすわけにはいかない。むしろ、彼らは攻撃性のはけ口をたくさん持っており、ゲーム内なので社会的にも容認される。このことから、チェスの名人は他の分野でも多くの業績をなし得ることが予想されるし、事実その通りである。

 これは、ミルトン・ガーヴィツ博士の論文と関連が深い。博士は、自身の監獄での心理学者としての経験から、投獄中にチェスを覚えた囚人は常習犯罪者になりにくいと述べている。彼らは自身の攻撃性をうまく操れるようになったのである。チェスを指すために必要な自我の強さが、ここでも役立っているに違いない。

 二人の男が女性もいないところで何時間も自発的に一緒にいる状況においては、同性愛的な含意を考察する必要がある。観察したかぎりでは、あからさまな同性愛はチェスプレーヤー間にほとんど見られない。今世紀のマスターの中では、私はたった一例を聞いたことがあるだけである。チェスのマスターとよく比較される芸術家においては、この傾向はさらに顕著であり、同性愛は珍しくない。

 チェスにおいて男根を象徴する豊富な事柄は、同性愛的願望、特に相互自慰の願望を空想的に満足させる。当然ながら、これは完全に抑圧されている。チェックメイトは父親を性的不能にし向けるようでもあり、同性愛コンプレックスの一部とも見なされるだろう。

 多くの点で、明白な同性愛的自我は、チェスプレーヤーのそれとは全く正反対である。ビチョウスキー(6)は、同性愛的行動の擁護に用いられる典型的な理由の数々を列挙している。とりわけ、自己愛や先自己愛(pre-narcissistic)気質に基づく弱い自我構造、本能的刺激の衝動に負けやすい自 我、本来の目的のために原始的な快楽を自制できないこと、本能的興奮によって精神機構が制御不能になることである。これらはすべて、チェスプレーヤーに見られる傾向とは全く正反対である。チェスプレーヤーの自我は強靱で、かなりの本能的興奮にも我慢でき、本来の目的のためには原始的快楽を捨ててひじょうに大きな衝動的エネルギーも無力にすることができる。

 ゲームに付きまとう不安もよく意識されることが多い。チェスプレーヤーは、「イライラ(nervous)」や「緊張(tense)」、ゲームのせいで眠れないこと、駒が頭の中で踊ること、敗北が深刻な打撃になること等の不平を言う。ゲーム中の緊張がたいへんなことはすでに述べたが、それにもかかわらず、攻撃的行為や身体的接触等、緊張を解放するはけ口となることは抑制されている。

 不安の源泉は明白である。攻撃性と同性愛が深く抑制されている一方で、依然として偽りの形で明るみに出ているために、罰への絶え間ない恐れを抱いているのである。偶然という要素がいささかもないために、勝利は自分自身の努力の賜であり、敗北は自分自身の失敗の報いである。したがって、勝つことは父親を倒すことであり、負けることは父親に倒される、つまり父親に屈服することである。結果的には、父親との争いに関する例の葛藤が常に存在するので、これが現実になるかもしれない恐怖心が、くまなく広がる不安につながっている。

 これらの不安にもかかわらず、最後の分析をしながら、プレーヤーは常に戦いが見せかけであることに気付いている。打撃の辛辣さは、しょせんゲームにすぎないという事実によって緩和される。チェックメイトをめぐるルールと実践も、不安の多くを和らげてくれる。しかし、実際のゲームによってどれほど不安が抑制されようとも、ほとんどの男性にはかなりの心配事が残っているので、チェスプレーヤーにおける緊張と不安の状態は、あらゆるノイローゼの徴候に最も多く見られるものと思われる。
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