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2006年10月07日

鈴木淳史『わたしの嫌いなクラシック』書評

 鈴木淳史の『わたしの嫌いなクラシック』(221ページ、'05年、洋泉社新書139)を読んだ。例によってamazonのお薦めに入ってきたからだが、ついに洋泉社新書まで手を出してしまったかという感じ。新書としては軽いが、他にもクラシック評論のおもしろい本をたくさん出している出版社である。

目次(下位見出し省略)
序章 「キライ」という価値

 「ボレロ」や「モルダウ」等、私も嫌いな曲を挙げているのが読む決め手にもなったが、一口に嫌いといっても、生理的なものから観念的なもの(著者は同一と考えているが)、単に出会い方が悪かった等の個人的な笑い話まで様々だ。

第一章 こんな曲がキライだ
 作品を嫌いになるということ
 モーツァルト/歌劇《魔笛》
 ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲
 ベートーヴェン/ミサ・ソレニムス
 ベートーヴェン/交響曲第九番《合唱つき》
 メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲ホ短調
 ヴェルディ/序曲・前奏曲集
 ヴェルディ/レクイエム
 ワーグナー/楽劇《ニーベルングの指輪》
 スメタナ/我が祖国
 ブルックナー/交響曲第八番
 シュトラウス一家/ワルツとポルカ集
 イヴァノヴィチ/ワルツ《ドナウのさざ波》
 ラヴェル/ボレロ
 ショスタコーヴィチ/交響曲第八番
 ブリテン/青少年のための管弦楽入門

 下位見出しまで書けば「キライ」のパターンがまる見えになるが、長すぎるのでやめておく。イヴァノヴィチはやや小者だが、知名度としては名曲そろいだ。そもそも一般的に名曲、名演奏家(次章)を取り上げることに本書の意義があり、取るに足りないもの(Jクラシック?)では成立しない企画である。
 共感したのは、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲はクレメルの前衛カデンツァぐらいやってくれないと退屈なこと。第九は合唱に入るとだめというのは、以前『西洋音楽史』の書評で私が書いた通り。ブルックナーは初稿の人間臭さがいいとする著者は相当の通かひねくれ者だ。私など、4番の原典版を聴くのは辛すぎる(笑。

第二章 こんな演奏家もキライだ
 嫌いな演奏家
 ヘルベルト・フォン・カラヤン
 カール・ベーム
 ヴィルヘルム・バックハウス
 ダニエル・バレンボイム
 オルフェウス室内管弦楽団
 ギュンター・ヴァント
 ヘルベルト・ケーゲル
 フジ子・ヘミング
 ニコラウス・アーノンクール
 クリスティアン・ティーレマン
 クラウス・テンシュテット
 ヤッシャ・ハイフェッツ
 ロリン・マゼール
 ロジャー・ノリントン
 サイモン・ラトル

 ベームが「イモ」だとか、バレンボイムが嫌いにすらなれないほど(私はピアニストとして嫌い)、フジ子の「物語」が嫌い等は同感だ。ヴァントは年の割にテンポが速い指揮者ぐらいにしか思ってなかったが、著者の分析はかなり力が入っている。随所に出てくるサッカー(指揮者=監督、奏者=選手)の比喩は軽妙洒脱。
 次章で名前だけ挙げられている好きな演奏家には、ヴァントを始め、ここで嫌いな理由が力説された者にかぎって入っているのでおもしろい。ラトルについては、過去の名演のパロディまたはデータベースとこき下ろしているが、私には一貫性を感じられないことがむしろ彼の魅力に思える。基本的に演奏者の独断(作曲家に対する)を認める著者だが、自身の「好き」の許容範囲が狭いのだ。

第三章 「キライ」の裏側に潜むもの
 わたしはなぜ「日本的」な演奏を嫌うのか
 古楽スタイルの演奏は好き嫌いで聴く
 「過剰さ」への距離感
 「線」の音楽としてのクラシック

 前章までの嫌いな作曲家と演奏家の羅列では、目から鱗の話もあるとはいえ、しょせん著者と私が共感するか否かだけの問題だった。本章ではなぜか、「騒音」や「交通」の問題にも触れていて、クラシックのような傾聴する音楽の好きな人が同じ悩みを抱えていることがうれしい(笑。
 歩行者が渡ろうとしていても車が止まらないから飾りにすぎない日本の横断歩道に対して、ヨーロッパでは止まってくれることから、機械に支配される日本(アメリカも)と機械が手段にすぎないヨーロッパを強調する。オランダで右折車と怒鳴りあったことのある私には納得できないが。

 著者は、ラトルもそうだがゲルギエフ、さかのぼればフルトヴェングラー等の過剰演奏がクラシックの終焉をもたらすとしている。しかし、過剰さがクラシックファンを増やしてきたわけだし、CDで残る過去の名演から頭一つ抜け出すには過剰以外にどんな手段があるというのだろう。
 昔の音が悪い名演をラトルがいい音でコピーしてくれるのなら、それはそれでありがたい。問題はその後で、音のいい名曲名演が一通りそろった後に何ができるかだが、最近やたら増えてきた別楽器アレンジ以外に何かないものか。金儲け担当プロデューサーもこういうときこそ知恵を絞ってくれ。

 二元論だらけの最後には、真木悠介の『時間の比較社会学』から引用した「線」「円」の対立概念が出てくる。それぞれが西洋と東洋、クラシックとポップス等に対応すると解く。たしかに、フィナーレまで線的に突き進む交響曲と円形図で表す雅楽のリズムの対照を連想させはする。
 しかし、クラシックにしても中途で不協和音と協和音の交替は何度も現れる。ただ、線=理想、円=現実という図式は、クラシックを現実逃避の芸術ととらえるには有効だろう。その意味では、著者が「線と円を共存させる」というチェリビダッケを私が評価しないのも納得がいく。

 著者がバロックや独奏曲に比重を置かないとはいえ、グレン・グールドのグの字も出てこないのは意外だった。古楽一辺倒を批判しつつもバッハをピアノで弾くことだけで退けられたのか、ライブあってのCDという著者のスタンスも関係しているかもしれない。
 しかし、こういう本でライブうんぬんと言われても、読んでる方はどれくらい共時体験できるのだろう。ライブとCDの違いなんて話もうんざりだから、どうせ読むなら許光俊のCD名盤本とかの方がいいやと思ったら、共著で『クラシックCD名盤バトル』なんてのも出ている(笑。
わたしの嫌いなクラシック
4896919475 鈴木 淳史

洋泉社 2005-08
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おすすめ平均star
star痛快な本ですし、傾聴に値する意見ですね。
starこの人の本おもしろい:好きか嫌いか1つ。
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posted by 水野優 at 12:39| Comment(0) | Classical Music | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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