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2010年05月31日

若島正編『モーフィー時計の午前零時』書評

 やっと読んだ。翻訳ものや日本語で書かれた小説を読むことにあまり時間を取られたくないの で、文体の参考程度にするつもりだったが、案の定内容より文体ばかり気になった。

 小川洋子が少年チェス棋士を主人公にした『猫を抱いて象と泳ぐ』 (これも読んだが訳あって書評は後に)を書いた縁で序文「チェスという名の芸術」を寄せている。彼女が編者から教えられた「最強の手と最 善の手は違う」の真意は何だろう。駆け引き的な意味(セオリー的に最善な手より相手がいやな手の方が最強)か、名局の成立に関して(1手で もメイトを引き延ばす最善の悪あがき防御より、相手の絶妙手を誘発する手の方が最強?)なのか。

 フリッツ・ライバー(Midnight by the Morphy Watch)若島正訳「モーフィー時計の午前零時」。 本書のタイトルにもなっている作品だが、ライバーについてはThe Dreams of Albert Morelandを最近読んだ(後に書評する)。これは未訳だそうで、短編は既訳かどうか等が調べにくいので、本書ではこういう情報がたくさん得られてあ りがたかった。
 本作は、モーフィーが実際に持っていた金時計と金銀製のチェスセットが様々な強豪棋士へと受けつがれていく話である。多くの実在棋士名が出てくるので 「編者あとがき」でもプロフィールと棋譜まで紹介されている。実在棋士に関しては予備知識がある方ががぜん楽しめる。私の訳したファインの『チェ ス棋士の心理学』を事前に読んでおくのもいいだろう(笑)。
 訳に関しては、「金門橋」と書いてわざわざゴールデンゲートブリッジとルビを振ったり、いらかの波、丑三つ時、曼荼羅等、原文がすごく気になる表現が出 てくるのが若島さんらしい。すでに雑誌連載で訳されていた(そんな仕事は考えたこともなかった)ものの単行本化。

 ジャック・リッチー(To the Barricades!)谷崎由依訳「みんなで抗議を!」も、雑誌で の訳の単行本化で、編者がリッチーの短編にチェスねたがあったと覚えていたから。チェス自体はストーリーのおまけに過ぎないが、スリリングな傑作だ。

 ヘンリイ・スレッサー(The Poisoned Pawn)秋津知子訳「毒を盛られたポーン」は、郵便戦を使った傑 作。郵便戦は本人が指しているかどうか分からないからミステリーのテーマになりやすいのだろう。訳は対戦の描写が多いからおそらくチェスが苦手な女性訳者 の苦労が忍ばれる。他には、やんちゃ男の一人称語りとはいえ、ここまで浮いた言葉が多いと、大げさに男を演じる宝塚女優のようだ。男も、女言葉語尾でさん ざんステレオタイプの女性像を描いてきたのだが。

 フレドリック・ブラウン(The Cat from Siam)谷崎由依訳「シャム猫」は、チェス・アンソロジーの洋書 (後に書評する)で持っているが未読だった。チェス自体は全くといって関係ないが、最後のオチがすごいし、この訳はちょっと硬いので私もいずれ訳したい。

 ジーン・ウルフ(The Marvelous Brass Chessplaying Automaton)柳下毅一郎訳「素晴らしき真鍮自動 チェス機械」は、数多くの「トルコ人」もの(日本人すらこのテーマで書いている)の1つで、舞台はドイツで文明が過去のものになったという 不思議な時代。この手の話を多く読んだわけではないが、かなり変わった「トルコ人」話だろう。訳は、全体的に時代がかっているのはいいとしても、地の文中 で台詞だけ太字で強調するのはいかがなものか。元々の雑誌でのレイアウトなのか。

 ロジャー・ゼラズニイ(Unicorn Variation)若島正訳『ユニコーン・ヴァリエーション』は新 訳。ユニコーンやグリフォンといった伝説の生き物が出てくる変わった話のわりには、実際のゲームを下敷きにした現実的な対戦が進行する。手順の説明は残念 ながら原文か訳のどちらかが間違っているので追いにくいが、「編者あとがき」を見れば分かる。ここでも郵便戦が使われる。

 ヴィクター・コントスキー(Von Goom's Gambit)若島正訳『必殺の新戦法』も新訳。荒唐無稽な話。パッ ハマンまで出てくる。

 ウディ・アレン(The Gossage-Vardebedian Papers)伊藤典夫訳『ゴセッジ・ ヴァーデビディアン往復書簡』。ウディ・アレンまでチェス短編を書いていたのかと思ったが、内容は郵便戦でのののしり合い合戦のみで、断片 的な指し手だけではゲームのイメージもわかない。訳も、手紙の文面で慇懃丁寧さを出しているのだろうが、硬い。

 ジュリアン・バーンズ(TDF: The World Chess Championship)渡辺佐智江訳『TDF チェス世界チャンピオン戦』だけはノンフィクションで、1993年のカスパロフ対ショートPCA世界選手権での主にショートの悲惨さを描い ている。どういう経緯でこんなマニアックなエッセイが訳されたのか。「編者あとがき」によると編者が、ロンドン在住でこの選手権をテレビで見た訳者と知り 合ったからだという。
 それにしてもチェスの裏側を描写した皮肉だらけの凝った文体は、チェス用語と概念だけでも大変な翻訳が功を奏しているとは言いがたい。軽妙さは見事だが 修飾範囲の曖昧さが多いのは、訳者自身も分からなくて逃げているようだ。たびたび出てくる「マーケティング」は、明らかにPCAがチェスをもっと金儲けに つなげる試みを指しているから直訳では困る。p267の「番勝負」は「盤勝負」の間違い?
 チェスがしょせん一般人の支持を得られない(チャンピオンが英雄視されるに過ぎない)ことについては、『ボビー・フィッシャーを探して』以来ずっと考え ている。今後出版する本の解説とかで触れたい。

 ティム・クラッベ(Meester Jacobson)原啓介訳『マスター・ヤコブソン』は、本ブログにもコメントを寄せてくださる原さんの翻訳 は、初文芸作品訳とは思えない名訳。p297「起こりうる結果を示す傾向に過ぎない」といった処理は数学者らしい?
 ヤコブソンの「棋力で劣ってもチェスを真に愛する自分こそが本当の棋士」というコンプレックスは、私から見てもちょっとひねくれすぎているが、本作が本 書の最高傑作なのは間違いない(ますます原さんがうらやましい)。郵便戦はここでも代理指しを仕立てる方法として使われる。ポーンのただ捨て手 8...d5?!は現実味がないが、カスパロフがシシリアンのポールセンか何かで放った新手を連想させる。

 ジェイムズ・カプラン(In Miami, Last Winter)若島正訳『去年の冬、マイアミで』は、若島さんにして は訳が冴えないから急いで訳し下ろしたのかと思ったら25歳頃のものだった。p351「都名人戦」のような日本語への移し替えをするわりには、歳の離れた アメリカ人同士の会話がタメ口だったりする。p350「現代チェス序盤戦法」はModern Chess Openingsだろう。The Queen's Gambitにも出てくるが、私は「現代チェス定跡事典」にしている。
 この話でも主人公の棋力のコンプレックスがテーマを成す。作者も下手の横好きだったりするから、その心中と重なるのかもしれない。訳者のかなりお気に入 りの作品だそうだが、私はあまり好きになれなかった。それにしてもほとんどの作品は1970年代以降に書かれている。フィッシャーの申し子のように。

 その後ロード・ダンセイニのレトロ風「プロブレム」1題と「編者あとがき」が続く。

 チェス小説も長さやジャンルを問わず訳したいが、「編者あとがき」で未訳作品として触れられているウォルター・テヴィスの長編The Queen's Gambitは半分弱くらいまで訳したまま、優先順位のために放置している。早く『ボビー・フィッシャーを探して』が出版されて、若島さんに読んでもらいたい…。

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star「猫を抱いて象と泳ぐ」の後に読みました

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posted by 水野優 at 15:31| Comment(2) | チェス(和書評) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「番勝負」は将棋のタイトル戦などで普通に使われる言葉で、
複数回の対局で勝敗を決めるシステムのことです:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%AA%E5%8B%9D%E8%B2%A0
チェスがからむ文章を訳す際、読む人が将棋や将棋界になじみがあるかどうかで
最善の訳が変わってくることがあるとは以前からよく感じています。
私にとっては「番勝負」は全く自然な言葉で、ごく一般的な用語かと思っていました。

「マスター・ヤコブソン」の棋譜は、実際1985年のカルポフ対カスパロフ戦を下敷きにしているようですね。maroさんが
http://www.orcaland.gr.jp/~maro/diary/z090218.html
で指摘していました(09/03/21の項)。
Posted by natsuo at 2010年05月31日 21:00
 なるほど、○番勝負の数字が抜けているわけですね。私は、元々詰め将棋用語と知らずに「手順前後」を広い意味で使って誤解された可能性もあり、使わないために知っておく必要もありそうです。
 8...d5当たりでしたか。でも私もmaroさんのところで見たのを忘れていただけかもしれず(汗。

 若島さんはチェスの具体手順やミステリー、SF寄りという自身の好みで選ばれていますが、私はわりと普通に感動的な話の方が好きなようです(最初からチェスにこだわる意味がない?)。
Posted by 水野優 at 2010年05月31日 23:18
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