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2006年02月05日

マスターズ第17回:アメリカン・チェス大会

 以前も比較したグレン・グールドとボビー・フィッシャーの共通点をもう一つ見つけた。それは「サロン」嫌いである。グールドはショパンのような初期ロマ ン派の当時パリのサロンで弾かれたような曲が嫌いだったし、フィッシャーはラスカーの棋風をサロン風と批判した。対象は違えど、二人とももっと突き詰めた 表現を理想としたのは間違いない。


 1855年に、ポールはスプリング・ヒルを主席で卒業し、翌年法律の学 位を取るためにルイジアナ大学へ入学する。そこでもチェスと同様彼の 記憶力は大いに役立った。同年、おじアーネストは、『イラストレイテッド新聞』に「法外なチェス・チャレンジ」と題した広告を出す。
 「ニューオーリンズに来る誰とでもポールが300ドルを賭けて対戦 する」というものだったが、誰も乗らなかった。そこで1857年ニューヨークで予定されたアメリカン・チェス大会への参加を決意する。しか し悲劇が起こった。ポールのが突然亡くなったのである。
 ポールにはニューヨークで指すことなどもう考えられなくなってしまったが、ニューオーリンズの誇りにかけてと説得する友人たちに後押しされて翌年ニューヨークへ旅立った。

 アメリカン・チェス大会は、1851年のロンドン大会に刺激を受 け、ニューヨーク・チェス・クラブが主なスポンサーとなって企画したアメリカ人に参加を限った同規模の大会であり、長らくヨーロッパに独占されていたチェ スを国内でも普及させ、レベルアップを図ろうという狙いがあった。
 役員が広いアメリカを選手集めに奔走する一方で開催地はブロードウェイに 決まった。メインホールには、アメリカ国旗や各州の旗が掲げられ、過去の各国の名人たちの名前も列挙されていた。大理石のテーブルが2列に並び、スタントン型の駒が置かれた。

 モーフィーは16人の参加者の中で抜きん出ていた。静かに我慢強く相手の指し手を待つマナーでも注目される。最強の相手はアイオワ州から参加のルイ・ポールセンで、1833年にドイツで生まれてから21歳のときに仕事 のためにアメリカへ移住していた。
 ポールセンは、地元ではもちろんのこと、モーフィーと違ってヨーロッパでの名声もすでに得ていた。ロンドン大会と同じ勝ち抜き戦なので、ポールセンは幸運にも決勝でモーフィーと当たり、ドローに終わる。そこで優勝者を決めるために二人のマッチが組まれた。
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posted by 水野優 at 12:58| Comment(0) | マスターズ(チェス近代史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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