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2005年12月25日

フォックス&ジェイムズ若島訳『完全チェス読本1』

 浅香唯主演のTBS昼ドラを見ている。娘が小説のコンクールで入選して出版を提案されるが、30万円を自己負担せねばならないという展開になっている。 出版社とは電話のやり取りだけだし、悪い話というイメージではないが、こういう現実を初めて知った視聴者も多いだろう。
 翻訳コンクールや通信教育でも、トップなら無条件で一冊任されるのに、次点だと自腹出版か単にスタッフ登録だけという同様なシステムがある。志願者の皆 さんは、くれぐれも「金を払ったけど仕事を回してくれない悪徳通販会社」と同じ結果にならないように。


 マ イク・フォックスリチャード・ジェイムズ著、若島正訳『完 全チェス読本1 はまってしまった人々 ローマ法王からハンフリー・ボガートまで』(256ページ、'98年、毎日コミュニケーションズ) である。これは原書を持っていたが、数年前に本書を借り たとき(たしか2巻目)に初めてその訳だと知った(汗。
 入門書を出すのもたいへんなチェスなのに、よくこんな「逸話集」を豪華な装丁のハードカバー3巻組で出せたなと思う(安いとよけい採算取れないが)。訳 者あとがきによると、出版社にチェス好きの担当者がいたらしいから、湯川・ピノー組の第二次(?)チェス出版ラッシュに乗っかったという感じだろうか。

目次
初版へのまえがき
第2版への序文
パトリック・ムーア博士による序文
 ★用語解説
 ★表記法

チェスとは何ぞや?
有名人
 国王
 聖職者
 犯罪者
 音楽家
 美術家
 作家
 エンターテイナー
 スポーツ選手
 思想家
 政治家
 軍人
 貴族
 実業家
 その他

 ★参考文献
 ★人名索引
訳者あとがき

 目次で分かるように、この第1巻ではチェスも強かった(または単に下手の横好きだった)有名人をかき集めている。原著者の二人もあまり強くはないからこ そ、情熱がこういう形の本に結集したのだろう。目次の前には「フィッシャーへの献辞」、珍しい写真8ページ、著者紹介がある。
 とんでもない裏話を引用しながらも、ジャンルごとに最強チェスチームを作る試みでまとめられている。ジャンルをまたがる人は戦力均衡のために移籍された り、他ジャンルの人との対局ゲームにまとめられてそちらを参照となっていたりする(棋譜が残っていればの話だが)。他の巻を参照する場合は面倒だ。

 古い話ほど誇張もあるからかとんでもない。「国王」では、『ハリー・ポッター』ではないが、取られた駒がほんとうに処刑される囚人チェスの話、『アラビ アン・ナイト』に出てくる興味深い話はスマリヤンの例の本以前に読んでおかねばと思う。
 「聖職者」では、ヨハネ・パウロ二世が自作のプロブレムを投稿した話が秀逸だが、バチカンの便せんまで使った巧妙な偽造だった。しかし、神の子のチェス 好きはほんとうだったらしい。「音楽家」に関しては『チェスの本』で読んだくらいしか知らなかったので、これほど強豪ぞろいとは思わなかった。
 しかし、フィリドールはともかく、スミスロフやタイマノフは我々の認識ではチェスが本職だ。実は、食えないチェスより音楽で稼いでるとしても、名声は チェスの方が上に決まっている。他には肖像画家のグロブもそうで、こういう「玄人」メンバーは反則だ(笑。

 「美術家」はデュシャンに尽きるが、我がマグリットはやはり下手の横好きレベル、チェスのモティーフを含む版画が多いのにM.C.エッシャーは、なぜか 名前も出てこない。「作家」では、チェスに言及しながらも「永久追放」とされる一人に、意外にもレイモンド・チャンドラーがいる。彼らの(負け惜しみ?) 意見は「チェスは時間の浪費」で一致している。
 「エンターテイナー」では、昔友人から聞いたことのあるロマークの必勝法が出てくる。白黒一局ずつ同時に指して、相手の白の手を自分の白番で真似て一つ は勝とうとする作戦だが、うまくいくのやら。「スポーツ選手」では、チェッカーのチャンプが出てくるが、他のプロゲームプレーヤーも反則の部類だろう。

 「思想家」チームは意外と弱い。コンピュータチェス史に名を連ねるチューリングがど下手で、UNIX開発者の一人でもあるケン・トンプソン(訳はトムソ ン)は、指したこともない! 「軍人」では、ナポレオンは言うに及ばず、『戦略論』のリデル・ハートもへぼだった。チェスにも通じる原則「弱いところへ戦 力集中」を生かせなかったのだろうか。
 チェスがなければアメリカ独立はなかった?というエピソードもおもしろい。「貴族」には、棋力を金で買う奴が出てくる。でっち上げの名局を作らせるの だ。モーフィー の有名なゲームの相手も出てくるが、本書でもそのときのオペラの演目については意見が分かれる(「ノルマ」か「セビリアの理髪師」)。

 「その他」で私的に気になるのは死ぬまで性別不明と言われた女装のボーモン公デオン、ちょっと調べてみよう。他にも、エドワード・ラスカー『チェスの冒 険』や チェスに関する文芸書など、入手可能で翻訳したい文献を見つけられてよかった。本書原本の第三版はさすがにもう出ないかな。


 またレビューはここまでとするが、新聞の書評等で名文を拝読したことがある文学者若島正といえども、翻訳者としてはこのまま見過ごすことはできない (笑。先に弁護しておくと、翻訳自体が助教授の職に比べて余技であり、本書など文芸作品でもないからそのまた余技であるのだろう。
 訳者の文体は文芸作品の訳でも、正格だがドライな印象がある。原文がはちゃめちゃな本書の訳では、そのドライな部分が強調されて、結果的には訳者の予想 以上にユーモラスになったと思われる。訳者は取り立てておもしろさを強調しなかったにもかかわらずである。
 もちろん原文の内容的なおもしろさは申し分ない。しかし、訳がその生死を左右する。エマヌエル・ラスカーの名言を「チェスは喧嘩だ」とする思い切りや、 「クロウリーだから黒…」という駄洒落の見事な処理(原文はカラスと黒?)などはすばらしい。

 でもあら探し(笑):p.116「…チェックを放置してもよかった。しかしそれだと、キングを逃げたのが偶然なのを認めることになるだろう」。意味不 明。
 p.134「…『リア王』には、シェイクスピアの全戯曲の中でチェスへの言及が4回しかない、そのうちの1カ所が含まれている」。原文に引っ張られす ぎ。書き直す。「…『リア王』には、シェイクスピアの全戯曲の中で4回しかないチェスへの言及のうちの1カ所が含まれている」。
 p.145「ソープ・オペラ」。これがメロドラマ(石鹸のCMが多いため)のことと若島先生御存知なかったか。もう外来語として通用すると思ったか。私 なら「昼ドラ」や「昼メロ」としてしまいそう。「熱心家」や「冷やし屋」なんて言葉も出てくるくらいだから、使えないことはないはずだ。

 原著があればもっとほじくり出せるかもしれないが、はっきりおかしいのがこれだけならかなり優秀である。固有名詞の発音を初めとして、著者のイギ リスローカルなネタはやっかいだっただろう。文化的背景まで読者がスラスラ理解できるような理想訳は遠い。
 文学ではないのだから、もっと思い切って料理してほしいところはたくさんあった。意外すぎて分かりにくい隠喩は直喩に変えてもいいし、括弧等の処理も (おそらく)正直すぎてまだるっこい。ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインがアーサー・〜になっているのだけは個人的に許せない(笑。
完全チェス読本〈1〉はまってしまった人々―ローマ法王からハンフリー・ボガートまで
4839900094 マイク フォックス リチャード ジェイムズ Mike Fox

毎日コミュニケーションズ 1998-08
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posted by 水野優 at 17:09| Comment(4) | チェス(和書評) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
このローマ法王はナイドルフ定跡の5...a6を、同国出身のナイドルフよりも先に指した人ですよね。
タイマーノフのピアノは好きですよ。奥さんと二台のピアノで演奏していた時代が素晴らしいと思います。「20世紀のピアニスト100」シリーズのCDで、唯一、二重奏の分野で選ばれたのが彼らでした。
「ソープオペラ」に関しては、新刊の『ロリータ』でもそうでした。
Posted by maro_chronicon at 2005年12月26日 00:35
 そんな先見の明もあったとは。ちなみにアルトゥール・ルービンシュタインもポーランド人ですね。
 「20世紀の〜」は図書館で見たことあるんですが、タイマノフが入ってたとは。
 解せないなあ>ソープ・オペラ

 maroさんもバッハのオラトリオでクリスマス越しだったとは(笑。ヘンデルっぽいバッハも肩が凝らなくていいですね。
Posted by 水野優 at 2005年12月26日 13:45
 この本は私の愛読書ですwこの本で私のチェスへの認識はただのボードゲームから人間を映す至高の知的遊び(ちと長すぎ?)に変わりました。

 そして今のサイトをはじめるきっかけもこの本の影響です。
(閑話休題)
 遅ればせながら、リンク完了をご報告申し上げます。これからも仲良くしてください。
m(_ _)m では良いお年を!!!
Posted by テンプラ騎士 at 2005年12月31日 00:46
 早速のしかも身に余る文言のリンクありがとうございます。
 『完全チェス〜』はmaroさんも座右の書だそうですが、そうですかあ。チェスにはまった人間の悲哀も伝わってきますね。こんなことに人生の大半を浪費してしまうことを批判するよりも、一緒に馬鹿の仲間入りしたいという気にさせられます。
 こちらこそ、良いお年を!
Posted by 水野優 at 2005年12月31日 15:39
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